第2話 ティアリという少女
――自分の想いを伝えたい。
胸が暖かくなるような嬉しいことも、涙が溢れて止まらないほど悲しいことも。
息を忘れるほど誰かを愛していることも、握った拳に血が滲むくらい憎んでいることも。
その全てを伝えたい、そして理解したい。
朧げな心の形は顔や声、仕草に現れる。ある程度は伝わっても、完璧にとはいかない。
けれどそれを、確かな形にする方法がある。
「わたしの気持ちは伝えたよ」
それは意味を持った文字の通りに、口から音を紡ぐこと。
「だから教えてほしいの、あなたの気持ちを。ゆっくりになっても、詰まっても、意味がわからなくなっちゃっても大丈夫。
……わたしは、あなたが伝え終わるまで、ずっと傍にいるから」
――これは、魔法がまだ信じられていなかった時代に存在した、唯一の魔法学院にて。
世界を変えようとする者たちに立ち向かった、たった一人の王子様を。
【言葉の魔法】で寄り添い、救った女の子の物語である。
*
ティアリ・エフォルティーネという少女は、アルテナ学園教師レリア・ファインにとって、とても大事な生徒の一人だった。
少女は四年生の時――十歳の時に学園に転入してきた。応接室での面談に応じたレリアは、父親と共に入室してきた彼女に目をやる。
焦げ茶色のおさげに、新緑の瞳をした小柄な少女。だが、愛らしい外見とは裏腹に、その顔には暗鬱とした影が落とされていた。
少女は俯いたまま口を固く閉じていたが、隣に立つ父親に促され、たどたどしく礼をした。
「テ、ティアリ、です。よろしくお願い、します」
その後ティアリの面倒を見ることになったレリアは、すぐに彼女が置かれている状況を理解することになる。というのもティアリは常に怯えた様子で視線を彷徨わせており、担任であるレリアとも中々目を合わせてくれない子だった。少し身体に触れれば「ご、ごめんなさい」と必ず謝る異様な有様に、レリアはこうなるよう仕向けた人物に――グレンダ・エフォルティーネに憎悪を抱かずにはいられなかった。
(あの性悪……家でこの子にどういう教育をしてきたのか、手に取るようにわかるわよ。学園にいた時からなんにも変わってないのね!)
この町アルテナを治める子爵家エフォルティーネの女当主、グレンダ。レリアは彼女と歳が近く、同時期に学園に通っていた。彼女からは数え切れないほどの嫌がらせを受けてきたが、領主の娘だからといって有耶無耶にされたことを、レリアは未だに根に持っている。
(そんなのだから、長いこと独り身だったのよ)
当主となった後もその意地の悪さは変わらず、耐え兼ねた夫にはついぞ逃げられたという。
グレンダはいなくなった玩具を探すことはせず、新しいものを買うことにした。なんと彼女は、平民の男を迎え入れたのである。
その男というのが、ティアリの父イーサン。
(可哀想に。父親と二人で住んでいたところを、いきなり父親が子爵家当主の婿になっちゃったもんだから、この子も子爵令嬢にならざるを得なかったのね)
ティアリの家庭環境は細かい刺繍よりも複雑だ。その糸を解いてやるのが自分の仕事であるとレリアは自負している。少しずつでいい、せめて学園にいる間は、ティアリが安らかに過ごせるようにと努力することにした。
市井の子供にも、ある程度教育が行き届き始めた現代において、しかし十歳のティアリは全く読み書きができない子供であった。今までは父親と共に畑仕事しかしてこなかったというのだから仕方がない。
ならばとレリアは、童話や御伽噺を題材にした絵本をたくさん用意した。まずはこれを読み聞かせて、彼女の好きな話から言葉を教えていこうと考えたのだ。
全ての話を語り終えるまで、少女はずっと黙ってそれを聞いていた。
「――今のが最後のお話よ。ティアリ、何か気に入ったものはあった?」
ティアリはこちらの顔を窺いながら、一つの絵本に指を載せる。
(これは……【ルーネリアと魔法の石】か。しまったわ、取り敢えず片っ端から読んじゃった。小さな子に見せるには、まだ早かったかもしれないわね)
魔法があると嘘をつき、最後には裏切られた男の話。悲劇的な最期を迎えるこの話は、子供たちには刺激が強くあまり受け入れられなかったようで、絵本も初版しか出ていない希少品らしい。
ティアリが遠慮がちにこれを選んだ理由はおそらく、レリアが一瞬訝しむように眉を顰めたからだろう。彼女は咳払いを一つして姿勢を正し、努めて穏やかに絵本を少女へと差し出した。
「ね、どうしてこの本を選んだのか、訊いてもいい?」
絵本を受け取ったティアリは、それを胸に抱き寄せ、長い逡巡の後に小さな声で言葉を紡いだ。
「この人は、嘘をついてない」
「うん?」
「……魔法、本当にあったのに……信じてもらえなかったのが、可哀想だと、思いました」
レリアは目を瞠る。この本を選んだだけでも驚きなのに、理由は更に予想外だった。
この童話を【悲しいお話】として捉える子はこれまでにもいた。そこから教師は皆「悪いことをしたからだ」とか「嘘をついてはいけないと学んだ」など、生徒の自戒を促し教訓とする。この話は、元はといえば子供に嘘をついてはいけないと伝えるためにあるからだ。誰も、真に魔法があるかどうかなんて注目しない。
けれどこの少女は言う。今まで嘘を吐いたかどうかに関係なく、魔法においてのルーネリアは、嘘などついていないのだと。
(……優しい子なのね)
レリアはティアリに向き直り、その考えの続きを促す問いを投げかける。
「もし、魔法があったとしたら。あなたは何がしたいと思う?」
「わたしは――」
ティアリの回答を聞いたレリアは、あまりの可愛らしさに思わず彼女を抱き締めた。
*
――それから五年後。十五歳となったティアリはアルテナ学園の卒業式を終えた。新たな年が始まり、春を迎える直前の三月のことだった。
夕焼けに染まる、閑散とした教室。開いた窓からは生徒たちの楽しげな声と共に、風に吹かれて校庭の枯れ葉が舞い込む。
ティアリは目を伏せて、その寂寥を感じていた。やがて彼女は、扉が開く音で静かに顔を上げる。
担任である茶髪の女教師レリアは、教卓の正面に座る少女に目を留めつつ、教壇に立つ。ティアリは彼女に話があると言われて、卒業式が終わった後も一人で教室に残っていたのだった。
レリアは深呼吸をして、ティアリをじっと見つめる。
「ティアリ。まずは卒業おめでとう」
「ありがとうございます。こうして卒業できたのも、先生のおかげです」
お礼を述べたのに、依然として担任の顔は晴れない。困ったように微笑むのは、これが彼女の欲しい返答ではないからだ。ティアリはそのことをよく知っている。
「あなたがよく頑張ったのよ。……それで、早速本題なんだけれど。ティアリ、やっぱりどこかの学院を受けて――」
「その話なら、うちのお義母様からもお話があった通り、です」
――学園を卒業したら、学院に行ってみないか。
それは、一ヶ月前の進路相談の時から散々言われていることだった。
答えはいつも「否」である。義母は進学させるくらいならば結婚させた方が得になると考えている。これが義理の娘の扱いとして生易しい方なのかどうかはわからないが、どちらにせよティアリは逆らうことができない。
「わたしは、学院には行けません。……ごめんなさい」
きっぱりと告げるのは心苦しかった。レリアが学園の進学実績のために推薦しているのではなく、真にティアリを想ってのことだとわかっていたからだ。
レリアは「……そう」と呟き、何か言おうとしては留めるを数回繰り返した。
「でもね、ええと……学院に行ける水準の学力があるっていうのは、本当に凄いことなのよ。やっぱり、勿体ないわ」
レリアは教卓から降りるとティアリの横まで来て、彼女の手を取った。その温かな手から、彼女が憤っていることがありありと伝わってくる。
「あなたの返答はわかった。だけど、私はグレンダの気持ちを聞いているんじゃないの。あなたの……私はずっと、あなたの気持ちが聞きたいのよ」
手を握り締める力が強くなると共に、ティアリの胸は締め付けられる。
(……先生は、ずっとわたしを見てくれてた)
この学園に転入してきて以来、レリアは何かと世話を焼いてくれた。家ではほぼ居場所がなかったティアリの拠り所になってくれた。ティアリにとって彼女は、父と侍女のマアサと同じくらい大切な人だ。
そんな人が背中を押してくれる。こんなに嬉しいことはないのに。
(だけど、わたしは)
目の前にいるのはレリアのはずなのに――その顔が、どんどん歪んでいく。恐ろしい、あの義母の顔になっていく。
「――ごめん、なさい」
絞り出した言葉は、それだけだった。
顔が上げられず、机の木目を見つめる。それすらも視線が定まらない。
レリアの表情を、今の自分の言葉で感じた想いを、確かめたくなかった。
呆れただろうか、失望しただろうか。
それでも……ティアリには、自由に生きる道などない。
「ありがとうございます。……その気持ちだけで十分です」
脳裏に義母と義妹の声が蘇った。
学院への推薦が来ていると、そう恐る恐る話したティアリを、彼女たちは笑い飛ばした。
『学院で何を学ぶことがある? 目的のない奴が、中途半端に学問を修めたところで一体何になれる? お前は私が決めた相手と結婚し、家のために有益な子を産め。それくらいの利用価値はあるだろう?』
『まあ、それがいいわ。お姉様、全てお母様にお任せくださいな。どうせお姉様を欲しがる殿方なんて、いらっしゃらないに決まっています』
ティアリには「はい、わかりました」と答える他なかった。元より選択肢などあるはずもない。父が彼女に買われたあの日から、ティアリの運命は決まっていた。
(……これでいいの。わたしには、まだお父さんがいる)
いつまでも、彼らの悪意に晒されながらでもいい――大好きな父の傍にいたい。
そのために彼女は、人知れず抱いていた夢に、再び静かに鍵をかけることにした。




