第10話 新しい朝
母が病に倒れるより少し前のことである。
当時六歳だったティアリは、家に帰るなり食事の支度をしていた母に尋ねた。
「ねえ、お母さん。けっこんってなあに?」
ティアリと同じ色の髪がふわりと振り返り、同じ色の瞳が柔らかに細められる。
母は娘がどんなことを尋ねても、必ず自分なりの答えを返してくれる人だった。ティアリはそんな母と、口数は少ないけれど優しい声の父、二人とずっと一緒にいられれば良いと思っていた。
「あらティアリ。そんな言葉どこで聞いたの?」
「ジョンおじさんだよ」
家の戸を開けようとした時、ティアリは隣に住むジョン夫妻の、ひそひそとした話し声を聞いた。「また一人、出て行ってしまった」と淋しがるジョンを、妻が肩を叩いて慰めている所だった。
「エイデさん、けっこんするんだって」
痩せた土地であるこの地域を去る人は後を絶たない。先日出て行ったエイデという青年は「結婚するために相手の故郷へ行く」と話していたらしい。
母は遠い目をして「……そう」と呟くと焼けたスイートポテトを取り出して食卓に並べ始めた。濃厚な甘い香りがするこの芋は、何度食べても飽きることのないティアリの大好物だった。
「結婚っていうのは、お父さんとお母さんみたいに、好きな人同士がこうやって一緒に暮らすことを言うの」
「お母さん、お父さんのこと好きだもんね! よく『好きよ』って言ってるし」
「ふふ、そうね。……でもお父さんだって『好きだ』ってうるさいわよ?」
「えー、そうかな? お父さん、うるさくないよ?」
父は寡黙だった。決して無視されたりはしなかったが、話しかけられることは滅多になかったと思う。
そんな父が、母に対して何度も愛の言葉をかけていた……いまいち想像できない姿だ。
「言ってるというより……目を見ればわかるわ」
「おめめ?」
「そうよ。お母さんはね、お父さんの目を見れば考えていることがわかるの」
当時のティアリにはわからなかったが、つまり【目は口ほどに物を言う】ということなのだろう。
「……でも。わたしたちが結婚する時、あの人はちゃんと口にしてくれた。
最初は恥ずかしがって『言わなくてもわかるだろう』なんて言って。でもね、その時のわたしは『ちゃんと言ってください』って言い返したの」
「なんで?」
ティアリは首を傾げた。
目を見れば伝わるなら、わざわざ訊かなくてもいいのに。
そう考える娘に対して、母は目を細める。それは大切な宝物を想うような、暖かな眼差しだった。
「……今でもお父さんに贈ってもらった言葉を、わたしはちゃんと覚えていられる。それはね、言葉っていう形があるからよ」
母は胸に手を当てて、自身にも言い聞かせるように娘に言う。
「ティアリ。伝えたい想いがあるなら、ちゃんと言葉にしないとダメだからね?」
*
鳥の鳴く声で、ティアリは薄っすらと目を開けた。
「……なつかしい、夢だ」
母が亡くなったばかりの幼い頃は、ティアリを励ますように夢に出てくれた母の記憶も、歳を取るにつれて見なくなっていた。
それが今になって現れるようになったのは、環境の変化が原因なのだろうか。
知らない模様の天井に、乾いた皺のない敷布団。長旅の疲労と馴染まないベッドのせいで、身体の節々が痛むのを堪え、ティアリはベッドから這い出る。
早朝のひんやりとした空気に腕を擦り、窓を見やる。一匹の小鳥が窓の向こうの枠に停まり、こんこんと嘴で硝子を突いていたが、近づくと小鳥は飛び立ってしまった。ティアリは少し残念に思いながら、窓を開けて陽の光を浴びる。
今日からここが新しい寝床だ。身体をぐーっと伸ばし息をついたところで――ティアリは思い出した。
「……あっ!」
(忘れてた……起きたら隣の子に挨拶、しようって思ってたんだった!)
しかし。慌てて振り返るも、薄紅色のベッドはもぬけの殻であった。
(あれ……いない。もう出て行ったのかな)
顔を洗いに洗面台に行くと、台の周りや布巾は僅かに水で濡れている。
そして、化粧机に置かれていたあの赤いリボンもなくなっていた。
時計を見てもまだ六時前だ。いくらなんでも登校するには早すぎる。
(……なんか、上手くやっていけるか、心配になってきた)
何故かはわからないが、入学前から避けられているのかもしれない。その疑惑には少々胸がざわつくが、心配ばかりしていられない。
(ううん、今は考えるのよそう。入学初日から遅刻とか、したくないし)
まずは着替えを済ませようと箪笥を開ける。そこには父から貰った緑のワンピースの他に、真新しい制服、そしてローブが一着ずつ掛けられていた。
白のブラウスに紺のジャンパースカート、その上から丈の短い黒のブレザーを重ねる。これらの裾や襟元などには、白の糸で刺繍が施されており、穏やかな三色で構成されたこの服は、清楚で落ち着いた印象を与えている。
最後に、胸元に学年を示す赤いクロスタイをつけて色を足して完成。
「……すごい。ぴったり!」
姿見の前に立ったティアリは、クロスタイの位置を調整してから一歩下がり、全身を隈無く眺める。
布が余るところも窮屈な部分もない。採寸通りの仕立てに感動し、興奮そのままに裾を翻して一回転。ふわっと膨らんだスカートの、ざらざらした感触を何度も確かめた。
ぱりっとした真新しさにはまだ慣れないけれど、昨日とは違う自分になれた気がして、胸が高鳴る。
ティアリは支度を終えると、メリッサに言われた通りローブを羽織り、食堂での朝食をさっと済ませて寮を出た。
「あ、ティアリさーん!」
寮の正門前。そこには元気よく手を振る青髪の少年が一人。
ライカ・ウィシュタリア――学院に向かう道中で、ティアリを危機から救ってくれた歳下の同級生である。
「おはよーございまーす!」
静かな朝に響き渡る快活な声に、門を通り過ぎる生徒たちはこちらを二度見している。
相変わらず元気だなあ、ちょっと恥ずかしいな……と思いつつ、ティアリは彼の隣に素早く並び、歩き始める。
「お、おはよう、ライカくん。その……朝から元気だね。よく眠れた?」
「はい、快眠です! ところで朝ご飯食べました? 色んな料理が載せ放題で、めちゃくちゃおかわりしちゃいました」
「うちの州より結構、シャーロが分厚くてびっくりしたよ」
そんな他愛もない話の流れで、ふとティアリはライカに尋ねた。
「ライカくんは、同室の人と仲良くできそう?」
そう言うとライカはうーんと首をひねった。
「それがですね。なんか病気になっちゃったみたいで、一旦家に帰ってるらしいんです。入学は遅れちゃうけど、後から来るってメリッサ先生が言ってました」
どうやら、ライカも同室相手とは顔を合わせていないらしい。
(もしかして、わたしのところの子もそうなのかな……いや、違うか。鞄なくなってたし、早くに登校したってだけかも)
周囲にいる生徒たちがつけている胸元のクロスタイ。その色は様々あって、一年生が赤色なことしかわからないために、何色が何年生なのかもわからない。
ティアリは赤色のクロスタイをつけた女子生徒の中から、赤いリボンを髪につけている生徒を探した。
もしかしたら同室の子がいるかもしれない。そんな望みを掛けながら。
やがて視界に学院の正門が入ってきた。白く立派な構えであり、学院章である白いケラススが、横一列に紋様として刻まれている。
巨大な校舎を見上げる。昨日と同じように、白を象徴するかの如く聳え立つそれは、清廉な威圧感がある……ティアリはそんな風に感じていたが。
(中は、案外普通かも)
真新しさは感じるものの、アルテナ学園と大差はないように見受けられた。
他にも、上級生らしき生徒とすれ違うたびに、生暖かい視線を向けられた。中には「よろしくな」「頑張れよ」と言った声をかけてくれる人もいて、その度にライカが元気よく挨拶するのでティアリもそれに倣う。
しかしながら。教室に着くまでに、ティアリは件の生徒を見つける事ができなかった。
「いよいよ着きましたね、教室!」
「そ、うだね」
既に生徒が中に数人いるのか、扉の向こうから話し声が聞こえる。
緊張はしている。けれど、身体が硬直するような緊迫感はない。心地の良い胸の高鳴り。前へと踏み出す勇気をくれる力だ。
「じゃあ……行きましょう!」
ティアリはこくりと頷く。
(大丈夫、大丈夫。……とにかく、頑張ってみよう。頑張れ、わたし……!)
そして勢いよく扉を開けて入っていったライカに続き、ティアリは新たな学び舎の床を踏む。




