第3話
「現実のお話をしましょうか、ギルバート殿下」
床に転がり、浅く呼吸を繰り返す弟の姿から、アルドリックは完全に視線を切る。彼は指先を滑らせて懐から金縁の眼鏡を取り出し、わずかに震える鼻梁に挟み込んだ。その整った動作の裏で、白磁のような指先がほんのわずかに硬くこわばっている。
彼はもう片方の手で、重厚な黒表紙の書籍である王国法典・国家条約集をひらりと開き、微かにすり減った特定の頁に爪先を落とした。
「ご存じないわけがないとは思いますが、念のため読み上げさせていただきますね」
張りつめた静けさのなかに、アルドリックの澄んだ、しかし温度を持たない声が落ちる。
「国家婚姻特約第4条。王家と高位貴族間における婚姻関係は、単なる血縁の結合にあらず、国家の統治基盤を支える不可侵のものとする。故に、正当な理由なき一方的な破棄、あるいは虚偽の告発による破談の強要は、王家に対する重大な盟約違反とみなす」
ギルバートは肌を刺すような気圧感に喉を鳴らし、一歩、また一歩と床の上で後じさった。未だに自身の置かれた地盤の底割れに気づくことなく、うわべを取り繕うように声を張り上げる。
「な、なんだと……!私の婚約破棄に、何か文句があるというのか!ルナへの虐めという明確な理由が――」
「明確な理由?」
アルドリックはわずかに喉を鳴らして息を吐き、頁の文字を細い指でなぞりながら言葉を継いだ。
「第4条の但し書きを忘れたのですか、殿下。万が一、王家側の勝手な都合や杜撰な私情によってこの婚姻が破棄された場合、高位貴族家は王家に対する忠誠義務の即時免除、および王家の財産に対する総資産の3割相当の違約金請求権を獲得する……つまり、こうです」
彼は顔を上げ、ギルバートの泳ぐような両目を真正面から射抜いた。
「貴方が今、この公の場で、何の法的手続きも経ず、証拠能力のまったくない証言を根拠にコーデリア嬢との婚約を破棄した瞬間……我が公爵家をはじめとするすべての高位貴族は、王家への忠誠を解除されました。そして、王家に対し、国家予算の数年分に匹敵する総資産の3割の違約金をいつでも一括請求できる権利が手に入ったのです」
どよめきが、乾いた音を立てて会場の空気を裂いた。
貴族たちの顔面から一斉に血の気が失われ、唇が微かに震え始める。王国を支える足場が、音もなく崩れ落ちたという事実がその脳裏に突き刺さっていた。
「お,おい……嘘だろ……?」
「王家への忠誠義務が免除って……それじゃあ、もはや王家はただの……」
「ええ、その通りです」
アルドリックは追撃の手を緩めず、淡々と真実を突き刺す。
「貴方は自らの手で、我が国における王家の財政基盤と、有力貴族たちの支持基盤のすべてを焼き払い灰燼に帰し、安全保障上いわば人質とも言えるコーデリア嬢を放り出したのです。殿下、ご自身の素晴らしいお遊戯の結果がどのようなものか、少しはお分かりいただけましたか?」
その言葉を浴びた瞬間、ギルバートの頬からみるみる色が失われ、息の詰まるような沈黙のなかで、その身体が小さく硬直していく。
「おい、ちょっと待て……!」
冷え切った空間を切り裂くように、血の気の引いた顔をした一人の貴族が、声を震わせて立ち上がった。
「たしかに王家への忠誠免除や違約金の話は理解した!だが、コーデリア様は国内の侯爵令嬢だぞ!なぜそれが人質になるというんだ……!」
その問いは、恐怖に凍てついた周囲の者たちの胸中を代弁するものだった。しかし、アルドリックは乾いた嘲笑を噛み殺すように、わずかに瞳を細める。
「知らなかったのですか?貴方方が学園の箱庭で甘いお遊戯に興じている間に、この国がどれほど危うい外交バランスの上に成り立っていたのかを」
アルドリックは鼻梁の眼鏡の位置を直すと、静まり返った広間に声を響かせた。
「コーデリア様の母方の血筋、そして彼女が元々結ぶ予定であった縁談。それこそが、西方諸国との間に締結された不可侵条約、および巨額の貿易協定を担保するための国家レベルの人質であり、同時に王家の野心を抑止する唯一の安全装置だったのです」
どよめきは波のようにうねり、やがて冷えた空気のまま会場の隅々に沈んでいった。
「西方諸国との条約の担保……だと?」
「左様です」
アルドリックは容赦なく言葉を重ねる。
「西方諸国は、我が国の一極集中した軍事力と王家の潜在的な野心を常に警戒していた。もし王家が自由に他国へ牙をむける状態であれば、いつか全面戦争になっていたはずだ。だからこそ、我が国で協力な基盤を持つコーデリア嬢が王家に嫁ぐことで、王家が暴走することはありませんという絶対の証明として彼女を王宮へ差し出し、辛うじて平和の均衡を保っていた」
アルドリックの双眸から、温度が一気に抜け落ちていく。
「それを……です。あそこの脳みそがお花畑の王太子殿下は、どうされたでしょうか?」
視線が、脂汗に濡れるギルバートの足元へと向けられる。
「たかが男爵令嬢の湿った涙と、自分たちの都合の良い思い込みだけで、その平和の要に公開の場で泥を塗り、放り捨てた。お分かりですか?」
アルドリックはギルバートを指さし、その愚行の結末を静かに言い切った。
「貴方は西方諸国に対して、我が国は条約を破棄する用意がある、いつでも内部分裂し、無防備に自滅する準備ができましたと宣言したようなものなのです。これは、敵国に対して無血自滅への入場券を自らプレゼントしたに等しい愚行ですよ」
その言葉が持つ途方もないスケールの重みに、貴族たちは呼吸を忘れ、ただ凍りついた床を見つめることしかできなかった。




