第2話
だが、その少年の姿を認めた瞬間、貴族たちの間に血の気が一斉に引いていくような凄まじいどよめきが走る。
「なっ……嘘だろ……?」
「あ、あれは……滅多に公の場に姿を現さない、公爵家の長男にして次期当主……アルドリック様……っ!」
「どうしてあの方がここに……!?」
ざわめきは瞬く間に肌を粟立たせるような異様な気配を帯びた波となり、会場全体を呑み込んでいく。
実務と折衝に専念し、表舞台に姿を現さないと言われる公爵家の長男。その可憐な外見の裏に隠された実態を知る者たちはみな、背筋に走る拒絶反応から一斉に身体をこわばらせていた。
兄の気配に気付いたライトが、ガチガチと小刻みに歯を鳴らし、引きつった顔でゆっくりと振り返る。
「あ、兄……」
ライトが情けない声を漏らした、そのコンマ数秒後のことだった。
可憐な陶磁器人形のような美少年アルドリックの表情から、一切の感情が消え失せる。
「うるさいよ、バカ弟」
冷え切った声音と同時だった。
アルドリックのほっそりとした手が、ライトの高級な正装の襟首を、まるで野良犬の首根っこでも掴むかのように容赦なく鷲掴みにした。
「ひっ……!?」
ライトが悲鳴を上げる隙すら与えない。
次の瞬間、会場の空気が物理的に捻じ曲がった。
ズズズズズッ……!
「がはっ!?う、嘘っ、まっ、待っ――」
華奢な体躯のどこにこれほどの出力が潜んでいたのか。アルドリックは人形のような優雅な笑みを浮かべたまま、成人男性であるライトの体を片手で軽々と引きずり回し、磨き上げられた大理石の床を滑走させた。擦過音が悲鳴のように響き、ライトの足元が惨めな軌跡を描く。
そして、手加減という概念を感じさせない完璧なフォームで、アルドリックはそのままライトの体を豪快に舞踏会会場の壁へと投げつけた。
「ひぎゃあッ!」
ドガアアアァァンッ!!
凄まじい衝撃音が会場の天井を揺らし、堅牢な石造りの壁に亀裂が走る。
投げつけられたライトは、空中で魂の抜けたような断末魔の悲鳴を上げると、そのまま壁からずり落ち、床の上で一匹のエビのようにぴくぴくと痙攣した。気絶寸前、意識の半分が彼岸へと渡りかけている。
あまりの出来事の理不尽さと、美貌と怪力の凄まじすぎるギャップに、冷たいものが心臓を締め付けるような感覚がルナを襲った。
(ひっ……ひぃぃぃっ……っ!)
彼女は腰を抜かし、隣にいたギルバートの腕にしがみつくどころか、その袖を爪が食い込むほどの力で必死に掴みながらガタガタと震え上がっている。
さきほどまで王太子の断罪劇に野次馬根性で沸き立っていた広大な舞踏会会場は、一瞬にして音を失った。
誰もが呼吸を忘れ、口を開けたまま硬直している。楽団の演奏はとうに止まり、聞こえるのはライトが微かに漏らす水泡のようなうめき声と、遠くのシャンデリアが立てるかすかな風切り音だけだった。
誰もが理解していた。
この美少年は、やばい。この場にいる誰よりも、圧倒的に、頭のネジと暴力の出力がおかしい。
会場全体を支配した沈黙の中で、アルドリックは汚れを払うように、優雅に自分の服の裾を整える。
壁に叩きつけられ、床の上で小動物のように痙攣する弟を一瞥すらしない。足元に転がる肉塊がまるで存在しないかのように、彼は悠然と佇んでいた。
アルドリックは懐から真っ白なシルクのハンカチーフを取り出すと、ライトの体を殴りつけたその華奢な右手を、指の一本一本に至るまで丁寧に、まるで芸術品を磨き上げるかのように優雅に拭き取り始めた。
その手際のあまりの丁寧さと、どこか優雅ですらある残酷さに、貴族たちは息をすることすら忘れる。
(この少年に逆らえば、一瞬で物理的にこの世から消し去られる)
暴力の余韻すら完璧にコントロールされたその姿は、周囲に本能的な警報を鳴り響かせていた。
静まり返った会場の中で、アルドリックは使い終えたハンカチーフをふわりと床に落とす。
そして、反対側の内ポケットから、冷たい光を放つ金縁の眼鏡を取り出し、スッと自分の鼻梁にかけた。
カチリ、と小さな金属音が静寂の空間に響く。
知的で冷ややかな知性の光を宿した青い瞳が、すっと細められた。
さらに、アルドリックはどこから取り出したのか、その華奢な体からは到底信じられないほど分厚く、重厚な革張りの一冊を懐からずずいと引き抜いた。
表紙に刻まれた黄金の文字が、シャンデリアの光を反射して冷たく輝く。
『王国法典・国家条約集』
それは裁判官や最高法規を扱う高位貴族でさえ、日常的に持ち歩くことのない代物だった。
アルドリックはそれを片手で軽々と持ち、ページをペラリと捲りながら、微笑みを浮かべて王太子ギルバートへと視線を向けた。
「さて。お片付けはこれくらいにして、ここからは知性のお話を始めましょうか」
その声音には、物理的な一撃よりも遥かに重い、逃げ場のない社会的な死刑宣告の響きが満ちていた。




