第1話
王立学園の大ホール。天井から垂れ下がる無数のクリスタルシャンデリアが、夜会服の金糸やドレスの絹を冷ややかに照らし出している。楽団が奏でる優雅な弦の調べの裏で、シャンパンの気泡がグラスの底から細い線を引いて消えていく。未来の王国を背負うエリートたちの門出を祝うはずの絢爛豪華な舞踏会は、しかし、一つの異物によって歪な澱みを帯び始めていた。
「皆様、ご覧になって。私たちを祝福してくださっているわ」
甘ったるい声が、ホールのざわめきを縫うように響く。音楽の輪の中心、最も強いスポットライトを浴びながら一歩ずつ歩み寄ってくるのは、王太子ギルバートであった。その右腕には、男爵令嬢ルナがまるで蔓草のようにねっとりと絡みついている。身の丈に合わない過剰なフリルとレースを纏ったドレスが、周囲の洗練された装いの中で異様な浮遊感を放っていた。
「おい、あれって……王太子殿下だろ?隣の女は誰だ?」
「確か、最近入学してきた男爵家の娘じゃなかったか。まさか、正式な婚約者であるコーデリア様を差し置いてあんな露骨に……」
「頭がおかしくなったんじゃないのか?卒業パーティーの席で、正気を疑うわ」
冷ややかな嘲笑と足音の混ざり合ったざわめきが、波のように広がっていく。だが、ギルバートはその視線をすべて自分たちへの賛辞と誤認しているらしい。彼は胸を張り、ふんぞりかえった歩調で、静まり返るフロアの中央へと突き進む。その背後では、公爵家の次子ライトが滑稽なまでのドヤ顔を貼り付けて控えていた。
その先で待ち受けていたのは、侯爵令嬢コーデリアであった。
純白のドレスに身を包み、黄金の髪を完璧にアップにまとめた彼女は、微動だにせず冷徹な仮面を貼り付けている。しかし、その手袋の布地から伝わるシャンパングラスの冷たさは、じわりと指先の感覚を奪っていた。喉の奥に張り付いた乾きを唾液で湿らせようと、彼女はわずかに喉を鳴らす。
(一体、何をなさっているのかしら、このお方は)
胃の腑のあたりを鉛の玉で突かれたような鈍い痛みが走る。コーデリアは小さく息を吐き出しそうになる衝動を、奥歯を噛み締めて押し隠した。半年間、一度かすりすらした覚えのない男爵令嬢をはべらせ、ここで何を誇らしげに睨みつけているのか。呆れを通り越して、底知れぬ冷ややかさが血管を巡っていく。
「コーデリア!貴女の罪を、今ここで徹底的に暴かせてもらう!」
ギルバートが響かせた声に合わせ、周囲の空気が一気に凍りついた。彼は大げさに胸を張り、コーデリアの鼻先に指を突きつける。
「貴女は度々、か弱きルナに対して卑劣な虐めを行ってきた!階段から突き落とし、紅茶を浴びせ、教科書を隠すなど、嫉妬に狂った許されざる所業の数々……!もはや慈悲はない。貴女との婚約を、この場で破棄する!」
大々的な宣言の響きに、ルナはギルバートの腕にしがみついたまま、うっとりと瞳を潤ませる。
「あぁ……殿下……!私のために、こんな公の場で……」
「見たか、皆の者!我が主である殿下のお言葉こそが絶対の正義だ!これでコーデリアを完全に追い詰めたぞ!もうお前の居場所など社交界にはないんだよ!」
ライトが調子に乗って声を張り上げる。
(……はあ?)
コーデリアの指先が、わずかにグラスの縁を捉えて迷う。階段から突き落としたという記憶はない。むしろあの階段で転びかけたのは足元のおぼつかないルナ自身だったはずだ。紅茶をかけた覚えもない。そんな時間があるなら、ギルバートに押し付けられた案件を一文字でも多く見直したい。呆れ果てた思考が脳内で澱のように沈殿していく。
(この頭の足りないおバカさんたち、あとで国王と我が父にどんな顔で言い訳するつもりかしらね)
コーデリアは唇の端をごくわずかに引き上げ、氷のような微笑みを浮かべたまま、その茶番の行く末を見据えた。
「ほら見ろ、コーデリア!お前の悪事はすでにすべて――」
王太子ギルバートの背後で、ライトが勝ち誇った顔をさらに歪ませて声を張り上げ、懐から何かを取り出そうとした、その瞬間だった。
周囲の貴族たちが冷ややかな視線を向け、あるいは面白半分に事の行方を見守る空気のなか、ライトの背後に、音もなく一つの影が滑り込む。
「……ん?」
背筋を氷の針で突かれたような悪寒に襲われ、ライトが言い淀んで肩をすくめる。
その無防備な肩口に、真っ白でほっそりとした手首が、まるで少女のように軽く置かれた。
「おや、ライト。随分と大きな声を上げているけれど……何をそんなにはしゃいでいるのかな?」
澄んだ鈴を転がすような声が響いた瞬間、周囲の空気がピタリと凍りついた。
そこに立っていたのは、ライトとは似ても似つかない、息をのむほど整った容姿の少年だった。
淡い亜麻色の柔らかい髪に、月光を宿したような透き通る青い瞳。絹糸のような睫毛が伏せられ、線が細く、まるで陶磁器で作られた人形のように可憐で華奢な美貌。およそ暴力とは無縁の、ただただ庇護欲をそそる麗しい少年が、そこに佇んでいた。




