嘘つき
世界を赤に染め上げる太陽が彼方へと沈み、代わりにと静かな光で優しく包み込む月が真上に差し掛かるころ。
人々が瞼の裏に夢を投影して眺めている時間帯に、女は下を向く。
窓から差し込む月の光がしかしそれを遮る雲が浮かぶ夜に、壁際に設置された机の上の小さなランプ。その仄暗い光だけが彼女を照らしていた。
寝かせられたベッドから上体だけを起こして、何をするでもなくただじっと俯いて下を見ている。皺になってしまうほど強くシーツを握った手が真っ白になって、次第に震え始める手に一粒だけの雫を落とす。
彼女のためにと宛てがわれたこの一室で、女は震えていた。震える手を、震える肩を、震える心を、女はどうすることもなくただじっと動かないでいた。
震えているのは、怖いからではない。恐怖から来る震えだったのならどれだけ良かったことか。それを今の彼女に知るべしはなく、硬く握られた手の甲をひたすらに呆然と眺めているだけ。
「…………」
――――クラリスの脳裏に描かれるのは、ある路地に建つ家屋での出来事。
自らが救うと息巻いた男の、見るも無惨な姿。そしてそれを為したであろう、不審なローブ姿の男。
焦りが合った、消耗が激しかった、疲労していた――――許せなかった。
クラリスは事細かに詳細を思い出し、その果てにある己の醜態へと嘆息する。
――――救うと決めたんじゃないんですか?
耳元で囁かれるその声に、クラリスは言い返すことも出来ない。心の臓に刃が立てられたような幻痛に唇を噛んで耐え、やがて収まる痛みに吐息。
それすらも独りよがりな茶番だと嘲笑し、クラリスは己の失望と向き合う。
「情けない」
怪しげなローブの男の言葉を思い出す。
己に陶酔しているように湾曲した表現ばかりの男だったが、そこからでも読み取れる情報はある。
男は、目的を果たしたと言っていた。ギーサとの関係を仄めかし、何らかの目的は果たしたのだと、確かにそう言った。
その目的は恐らくクラリスに関係するものだろう。クラリスの剣を手にしたギーサ、彼の誘導による先で現れたヘビの怪物と、屋敷で現れた三種類の、類似してはいるものの最初に出会ったのとは違うそれぞれのヘビの怪物。
何故か拷問によるだろうボロボロの状態のギーサを発見したのと同時に現れた怪しげな男。
これら全てが、無関係であるはずがない。ここまでの一連で、そこを疑う余地はないといって正しかった。
じゃあ、何のために? 簡単にクラリスの意識を奪って見せて、それでいて命を奪うことまでせず。何のためにクラリスの前に姿を現したのかも不明で。
その不可解さが、クラリスには気持ちの悪いものに思えて仕方がなかった。
「でも、確実なのはギーサさんに手をかけたのはあの人……」
何のために、と聞かれては答えようがないが、そうであろうと確信していた。
「――――ふ」
掠れた吐息が漏れる。
確信、とは笑わせてくれる。クラリスが確信しているのはそんなことではない。
男の――――ローブの隙間から覗く眼が、交差していた。己に酔い、狂気に身を委ねる男の――――静かな理性の眼が、クラリスを捉えていた。
男の狙いは、クラリスだ。男は終始クラリスを見ていた。
「次は――――」
勝つ、とは言わなかった。クラリスの役目は勝つことじゃない。
勝って勝って勝って勝って、その後ろに誰もいなければ意味がない。
勝てなくて良い、今回みたいに負けても良い。負けることは恥じゃない、それを糧に次を掴み取れれば、それでいい。
だから、勝ちではない。
救って救って救って救って――――勝とうが負けようが、救うと決めた人は必ず救う。
英雄のように勝利を手にして、無様に地に這い蹲って――――それで救われるのなら、それでいい。
――――それが、勇者に与えられた役目なのだから。
◆◆◆◆◆
「――――正直に言うと、状態は最悪だな」
ある一室の扉の前、長く四角く循環する廊下。窓際にもたれかかったガランドは腕を組み、眉間に皺を寄せて話す。普段の豪快な声量をなるべく抑えた静かな声だが、その側に立つ者に伝えるには十分の声量。
両手を縁に付けて窓の外をジッと見つめているエルに、ガランドは反応を待つこと無く続ける。
「右目の眼球、右手は小指は一本、左手は中指から小指の二本の先がねぇ。幸いと言えるのは、クラリスの応急治癒のおかげで命だけは落とさずに済んだことだ」
「…………」
「身体のあちこちにある切り傷やら火傷は一通り治った、後は胸にあるデカい抉り傷と頭部の損傷を診ながら経過観察だ」
そう淡々と語るガランドの顔は険しい。
震える手を無理やりに抑え、カチカチと鳴る歯が閑静な廊下に響く。
――――純粋な憤怒が、ガランドの中で膨れ上がっている。
横にいるエルもそんなガランドの様子に気付いて目を伏せる。何を言おうにも、何も意味がないように思えたのだ。
「クラリスの方も問題ない。外傷はほとんどねぇ。かなり疲労は溜まってるらしいが時期に目を覚ます。エル、お前さんはあっちを診ててやれ」
「うん、後で様子を見てくる。――――ガランド、ごめん」
ふいに挟まれる謝罪に、ガランドは目を見開いて反応する。
横にいるまだ成人にも満たない子供の顔を見て、その分不相応に重みのある言葉に頬を緩め、
「気にすんな、お前さんらのせいじゃねぇ。こうなったのはギーサ本人の責任だ。ひでぇ傷は、つまりは折れなかった証だ。俺は、俺の家族が一本芯を通したことに誇りをもっている」
「――――」
「それにお前さんらのおかげで、ギーサの野郎が助かった。追わなきゃいけねぇ敵も見つかった。礼こそ言え、謝られる筋合いはねぇ」
器のでかいことだ、と感心を口にはしない。その度量をもって、彼は多くの人の上に立っているのだろうと分かるから。苦笑し、小さく「ありがとう」と呟いて押し黙る。二人の間に流れたしばしの沈黙が、「それで」と声を発するエルによって遮られる。
「――――どう思う?」
そう尋ねたエルに、ガランドは曖昧な問いだとしばし思考を巡らせる。主語はなくともエルの言わんとすることは分かると鼻を鳴らした彼の返答を待っていると、ガランドは目を細めて、
「お前さんらが会ったっていう男。ウチのもんにふざけたことをしやがったのはそいつで間違いないだろうよ。だが理由が分からねぇ。何のためにギーサの野郎を拷問した? 一体、ギーサから何を聞こうとしていた? そいつだけがどうしても分からねぇ」
そう疑問を口にするガランド。エルから当時の状況については話を聞いており、それを踏まえての質問に対する答えなわけだが。
「ギーサがクラリスの剣を騙し取ったのはそのローブの男の仕業だろうし、渡す直前に踏み留まったギーサが剣を隠した、とか? 何かそれらしいことも言ってたし、おかしくないと思うんだけど」
「まぁおれが一番”ある”んだろうが、どうにもそれだけとは思えねぇ。何かもっと、ギーサだけが持っているような何かがあったんじゃねぇかって、そう思えてしょうがねぇんだ」
「何かって何さ」
「それを言われちゃどうしようもねぇんだが……」
ガランドは何かが引っかかると怪訝な顔をする。その”勘”に何の心当たりも思いつかないエルは首を傾げるのみ。
疑問符を浮かべるエルを前にしばらく考えていたガランドだったが、ふと突然豪快に頭を掻きむしって埒が明かないといい、
「どちらにせよ真実はギーサとその男にしかない。男の足取りが掴めねぇ以上後はギーサの目が覚めるのを待つことしか出来ねぇよ」
そうして思考放棄にも似た結論を出しながら、しかし心の奥では確かに思考を続けていた。
ガランドの答えに肩をすくめ、エルは体重をかけていた窓の縁から手を離す。二本の足で真っ直ぐ立ち、
「それもそうだね、考えたって仕方ない」
壁にもたれかかっているガランドへ背を向けてエルは歩き出す。ここで二人で顔を突き合わせて話し続けていたって何も変わらないと子供らしからぬ笑みを浮かべ、半身だけ振り返ることにはその笑みは消していた。
「それじゃあ僕はクラリスのところに行くよ。しばらく様子を見て、目が覚めたらまた伝えるね」
「おう、飯の時間になったらリーシエを寄越す。お前さんも、今はゆっくり身体を休めてくれ」
背後からかかる身を案じる声に、エルは片手をひらひらと振ることで返事をして歩いていく。
◆◆◆◆◆
「――――お」
クラリスが眠る寝室に向かう道中、三階にあるその部屋へと階段を登ったその先に一つの人影が待ち構えていた。
階段と廊下の境目を立ち塞ぐように佇み、その無感情な目でジッとこちらを見つめている。
「クラリスならともかく、僕に用があるなんて珍しいね。君の塩対応って結構傷付くし淋しいんだよね。これを機に仲良しさんになってみる?」
エルの軽口にも反応せず、ただジッと立っているメイドの少女にエルはそれなりのショックを受ける。本当に仲睦まじくなれるとは思っていないにしても無視は酷い、と受けた精神的ダメージを口にしてみる。
変わらずエルを射抜く視線にどうしたものかと悩んでいると、
「……どこまで本当?」
低い、いつもよりも棘棘しさを増した声音の問いがエルへと向けられる。無感情な――――いや、いつになく”真剣”な面持ちでエルの前に立ちはだかる彼女――リーシエは、茶化すことは許さないとでも言いたげな凄みを持ってエルを睨む。
リーシエの質問の意味が分からないエルは答えることが出来ない。分からないなりに答えようにも、それを許さない雰囲気が彼女にはあった。
故にここは、慎重に言葉を選ぶ必要がある。
「……えぇと、本当って何のこと? 僕クラリスの様子を見に来ただけなんだけど。まだ起きてないんでしょ? 心配なんだ」
言葉を繕うエルを射止める視線は変わらず冷ややかなものだ。彼女の言葉とその鋭い目の意図が分からず、エルはどうしたものかと困ってしまう。若干他人とのコミュニケーションに難があるエルがいうのも何だが、目の前の少女も大概口下手だと感想する。
尚も鋭さを増す目に晒されて頬をかくことしか出来ないエルを見て、
「嘘つき」
ポツリと、エルにも聞こえる声でそう呟くリーシエ。それにエルが反応する間もなく、
「お前は嘘つき。言ってることの、何一つも信用出来ない」
「――――」
「お前の口から出る言葉は全部嘘、嘘、嘘ばっかり。――――お前は敵?」
下にダラリと下げられている手にいつの間にかナイフが握られているのを見て、状況は想像以上に悪いのだと今更ながらに察する。何を考えてかエルに対し敵意を向けるリーシエに冷や汗が吹き出し、おのずと後ずさりをして――――――――
――――
――――――――
――――――――――――
――――――――――――――――
「――――ハッ」
逸らすこと無く睨み続ける冷たげな眼差しを受け、屋敷の主の為に懸命に役を果たそうとする健気な少女を見つめ返す。十六、いや十五くらいだろうか。まだ若いというのにその忠誠心は並のそれではなく、よほど愛されているらしい、と先程まで顔を合わせていた大男を思い浮かべる。
しかし、それもそうなのかもしれない。彼女は、今よりもずっと幼い幼少の頃に魔物による被害で家族を失っている。父や母は殺され、何とか這いずって逃げ出した彼女の身体もとうにボロボロで限界を迎えていた。
それを救ったのが当時のガランドだ。絶望に支配された少女を助け、それによって生きる意味と喜びを手にした彼女は、その恩義を持って彼に仕えているのだから。
だからこそ、彼女は今ここで立っているのだろう。――――だが、
「ガランドは、君が無茶をすることを快く思わないだろうね」
「ッ――――!」
「何かをしようとするなら、何でも相談してあげればいい。きっと泣いて喜ぶだろうさ。少なくとも、こうやって自分勝手に動くよりは、ね」
リーシエの意識の隙間を付いてその横にまで進む。遅れて気付いた彼女は大きく飛び退くようにその場を離れ、
「僕が君たちの敵になることはないと思うよ。僕は誰の敵でも味方でも――――あぁ、いや、それはちょっと違うか」
いつもは眠たげに半開きだった目を大きく開き、髪の毛を逆立たせて胸の前に構えたナイフがカチカチと震えている。
ともすれば猫の威嚇のようだと小さく笑い、道が開かれたエルはそのまま進んでいく。
背後で尚も警戒を最大限に、構えたナイフをそのままにその場から動けないでいる彼女へと振り返る。
「――――僕は、今はクラリスの味方だ。それだけは間違いなく本当だよ」
そう言ってエルは再び歩き出す。
段々と遠ざかっていくその後ろ姿を、リーシエはただずっと見つめていた。




