第90話 本人のいない所で
いつものようにノクスの部屋に入ると、そこには細かな文字が書かれた紙が散乱していた。
「どうしたの、これ…」
床に落ちている紙を一枚拾い上げると、そこには昼間ノルティアが書いていたような文字にも見えた。
「魔素環流術式の一部だ」
「魔素…?」
最後の一枚を書き終えたノクスが右手を掲げると、その周りにふわりと光る文字が浮かび上がる。
紙に書かれた文字がそれに答えるように、淡く光って部屋全体に広がる。
一枚一枚書かれた模様のような字が重なり合って、巨大な模様のように浮かび上がった。
「以前言ったのを覚えているか?海は魔素の嵐となっていると」
「ノクスが設置したって言ってたやつだよね?」
ノクスは頷くと、ふわりと浮いている紙を一枚手に取る。
「以前設置してから随分経つ。これは術式そのものを改良して、再設置するための設計図だ」
…ここの放出術式がまだ甘いな、そう言って、再び何かを書き込み始めるノクス。
「魔術ってこんなに複雑なものなの?」
「簡単なものなら短くていい。だが、今回設置し直すのは自立型の術式だ。結衣の世界でいうところの、システムに近いものだな」
部屋いっぱいに広がった紙が、ノクスが新しく文字を書き込むほどに淡い光を放つ。
「本来なら、何十人という術士がやる作業なのだが…」
そこでノクスの表情が初めて曇った。
「…この城の転移阻害術式を掛け直したばかりで魔力が底をついて、どれも使い物にならないのだ」
「…それって…」
「「…。」」
それはこの前ノクスが盛大に壊したやつではなかっただろうか。
そして、そうなる原因となったのはノクスから必死に結衣が逃げたからで…。
「結衣が気にする必要はない。壊したのは私だ」
「でも、逃げたのは私だし…」
「あんなに簡単に壊せては意味がないと、より強固なものを組み直したから、余計に、な…」
だから気にするなと、ノクスは小さく笑った。
結衣の脳裏には、術式を見ながらここはもっと効率良く、ここはもっと丁寧に、と指示をしているノクスの画が浮かぶ。
「もう少し設計図を詰めたら、術式を定着させるためにしばらく城を空けることになる」
「しばらく?」
「あぁ。そうだな…一月ほどはかかるかもしれない」
「1ヶ月も!?」
驚く結衣に、ノクスはこともなげに言う。
「術式が定着する前に止めてしまうと、未完成の術式が暴走してしまうのだ」
ノクスは喋りながらも手を止めない。
一枚の紙に書き込んでいるかと思うと、次には違う場所にも書き込みを増やしていく。
(大事な仕事だろうし、仕方ないよね)
ノクスにしかできない大事な仕事なのに、寂しいなんて言って困らせるのは違う気がした。
(1ヶ月か…)
今はアイルもキリもいない。
豊とエレンはいるけれど、二人の邪魔はしたくない。
結衣はどこか落ち着かない気持ちを抱えながらも、ずっと手を動かし続けるノクスの背中を見つめる。
長い指が細かく動くたびに光る文字が増えた。
昼間見た、手を繋ぐ豊とエレンの姿が脳裏に過ぎる。
「…結衣?」
いつもと違う様子の結衣を見て、ノクスが声をかけた。
「…ううん、何でもない」
ぎゅっと握った両手は、最後まで開かれることはなかった。
「魔王様、こちらが頼まれていた資料になります」
「あぁ」
廊下を早足で歩きながら、ノクスは資料に目を通す。
「術式の定着には、やはり一月ほどを?」
「ああ。早まる可能性はあるが、一月は見ておいた方がいい」
「承知しました。魔王様の不在中はこちらで対応いたします」
クロードが手元の書類へ何かを書き込む。
「それと、もう一点」
「何だ?」
「ユイ様との正式な契約は、いつ頃をお考えですか?」
一瞬だけ手を止めたノクスは、しばらく考えてから口にした。
「…戻ってからだな」
「では、帰還後すぐに式典の準備へ入れるよう、こちらでも調整しておきましょう」
「いや」
「?」
「日取りは結衣と決める。まだ本人には何も話していない」
クロードの眉がほんの少し動く。
「……まだ、お伝えになっていないのですか?」
「ああ」
「ユイ様とは、すでに想いが通じているのでしょう?」
「そうだ」
「でしたら、特に問題はないとは思いますが……」
クロードは一度言葉を切った。
「ユイ様は人間です。魔族とは婚姻に対する考え方が異なる可能性もございます」
「…そうだな」
「ユタカ様に聞かれてはいかがでしょうか?」
「豊にか…そうだな」
ノクスが豊の部屋を訪れたのは魔素環流術式の目処がようやく立った頃だった。
「豊、今いいだろうか?」
部屋にいることは部下からの報告で確認済みだが、来ることは伝えていない。
声をかけると、中から何かが盛大に落ちる音がした。
「…?」
バタバタと走る音がして、ドアが開いた。
「ど、どうしたんだノクス!?」
「…何を慌てている?」
「何でもない!」
中にいるのは豊だけではないようだった。
「邪魔をしたのなら改めるが…」
「大丈夫だから!」
ガタン、と部屋の奥で何かがぶつかる音がする。
「………外で話すか」
「…頼む」
部屋で何があったのか、何となく察するノクスだがそれを言うほど野暮ではない。
改めて部屋を用意するほどのものでもないために、廊下を歩きながら話し始める。
「生活で何か不便なことはないか?」
「不便?快適すぎて、むしろもっと働きたい」
「…お前たち兄妹は本当に似ている」
結衣も時間を持て余すのは嫌だとずっとセヴランとノクスの書類を手伝っている。
豊はさすがに書類は出来なかったので、運動不足の解消と称してガルドの隊の訓練に参加している。
何でも、人間であるはずの豊の身体能力が凄すぎて、獣人たちの闘争心が刺激されるらしい。
「結衣が米出せるのは分かったからさ、後は色んな米を出せるようになったら、米屋が出来るんだけどなー」
「…検討しておこう」
ノクスの脳裏には、つい先日結衣と豊の光景が目に浮かぶ。
“結衣!次はコシヒカリだ!出来れば富山県産のやつ!”
“え!?そんなこと出来るのかな…”
“もしこれが出来たら、魚沼産も出せるようになるかもだろ?”
”…頑張ってみる”
この兄妹はどこに行っても変わらなくて、思わず笑った記憶がある。
「部屋はあのままでいいのか?」
「…?特に不便じゃないけど」
「エレンと恋人になったのだろう?広い部屋か…もしくはどこかに屋敷でも構えるか?」
「知ってたのかよ!?…そんなに分かりやすかったかなぁ…」
恥ずかしそうに頭をかく豊。
「ってか、そんな屋敷とかいらないって。今のままで十分広いし」
「そうか」
ノクスなりに気を回したつもりだったが、余計なお世話だったらしい。
「伴侶として契約を望むのであれば手を貸そう」
「……は?」
「人間同士でも、魔族式の契約は成立するはずだ」
ノクスの表情は特に変わることもなく、当たり前のことを話すように言っている。
「いや…まだそこまでは…」
それでも、その先の未来を想像したのか豊の耳が赤くなる。
「…そうか」
一度言葉を切ったノクスが口を開いた。
「一つ聞きたい。人間は婚姻の際、何をする?」
(さっき俺とエレンの話してたから興味持ったのかな?)
「色々あるけど…大体、指輪とか?」
「指輪?」
「お互いの左手の薬指につけるんだよ」
「なぜその指なんだ?」
「いや…俺も詳しいこと知らない」
(薬指…この指は、人間にとって大事なものなのか)
自らの薬指を見ながら、ノクスは本来豊に伝えるべきことを思い出した。
「近いうちに、1月ほど城を空ける」
「長いな」
「あぁ。身の回りで不便なことがあればクロードにすぐに言うといい」
「分かった」
「それと…」
豊に改めて向き直ったノクスは、結衣の顔を思い浮かべながら言葉にする。
「結衣のことを頼む。今はアイルもキリもいないからな」
幹部たちとの仲は良好のようだが、やはりずっと一緒にいた人が周りにいないのはノクスとしても少し心配な部分がある。
「任せとけ!」
満面の笑みで答える豊に、ノクスは頼むとばかりに軽く肩を叩いた。




