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第7話 異世界1日目の終わり


夜になって、街の喧騒が少しだけ静かになった頃。

異世界だから仕方ないかもしれないけれど、現代が当たり前の結衣にとって、宿に風呂がないというのはとてもショックだった。


「じゃあ、これで」


アイルが、さらっと手をかざす。ほんのりと温かい光が、体を包んだ。


「……あ、なんか、さっぱりした気がする」

「気がするだけじゃなくて、ちゃんとさっぱりしてるよ」

「へぇ……すごいね」

「でしょ」


便利だとは思う。でも、やっぱりお風呂に入った感覚とは全然違う。湯船に浸かって、体の芯から温まる感じが——恋しかった。

簡易的な衝立を作ってもらって、それぞれのスペースができた。


「おやすみ」

「おやすみなさい」

「……ああ、おやすみ」


蝋燭の火が、小さく揺れている。

結衣は、ベッドに横になった。

目を閉じる。


(……眠れない)


同じ部屋にアイルとキリがいるからか。聞き慣れない街の喧騒が、壁越しに聞こえてくるからか。それとも、日本とは全く違う空気に体がついていけていないのか。

どれが原因なのか、自分でも分からない。


たぶん、全部だ。

衝立の向こうで、蝋燭の火が揺れている。時折、影が動くのが見える。アイルかキリか——どちらかがまだ起きているらしい。


結衣は、静かに起き上がった。

ベッドサイドに置いてあった、黒い帳簿を手に取る。

パラパラとめくると、見慣れた文字が浮かび上がった。



───────────────

■ノクス 役職:統括責任者

状態:危険 ※生命維持限界域

・稼働率:危険域 ・魔力残高:枯渇寸前 ・現在地:測定範囲外 ・契約接続:不安定

───────────────



(ノクス……)


そっと、文字を指でなぞる。

生命維持限界域。その文字は、相変わらずそこにある。変わっていない。


(せめて、少しでも良くなってたら)


でも、帳簿は正直だ。変わったなら、変わったと出るはずだ。

一枚めくる。

従業員一覧のページ。アイルとキリの文字が、浮かび上がってくる。二人の状態は——良好、とある。それだけで、少し息が楽になった。

その下に、豊の項目。


・現在地:測定範囲外 ・状態:確認不可


「……お兄ちゃん」


声に出したら、少しだけ鼻の奥が痛くなった。

生きているのか、どこにいるのか——何も分からない。

もう一行、目を落とす。

エレンの名前を、探す。


ない。


もう一度、ページ全体を見る。

やっぱり、ない。

どれだけ待っても、エレンの文字は浮かび上がってこなかった。


(……どうして)


ノクスと、アイルと、キリと、兄は出てくるのに。

エレンだけが、どこにもいない。

ぼんやりと帳簿を眺めながら、結衣は考えた。


(従業員として表示されている人と、エレンの違い……)


そこで、思い当たった。


「……面接、だよね、たぶん」

小さく、呟く。


最初はノクスが、「正式な雇用関係を結ぶべきだ」と言って、兄と一緒に証明写真まで撮って履歴書を持ってきた。あの時は、なんでこんなことになってるんだろうと思いながら、気づいたら面接していた。


その後、アイルとキリも同じように。

あの時は、なんで私こんなことしてるんだろう、なんて思ってた。ちゃんとした面接の形を取ることに、どれだけの意味があるのかも分からなかった。

でも。


(まさか、こういう形になるなんて)


エレンは、面接をしていない。来たばかりで、まだそういう話にもなっていなかった。

帳簿は、まるでそのことをちゃんと把握しているかのようだ。

小さく、ため息が漏れる。


「眠れないのか?」


衝立の向こうから、遠慮がちに声が聞こえた。

キリだ。


「……うん」

正直に答える。


「なんか、色々考えちゃって」

少しの沈黙。

衝立の向こうで、影が動いた。


「ノクスの状態……変わってなくて」

「そうか」


衝立の向こうで、キリが静かに返す。


「ちょっと、怖くなっちゃって」


素直に言えたのは、暗いからかもしれない。顔が見えないから、言葉にできた気がした。

キリは、少しの間黙っていた。


「……だが」


やがて、口を開く。


「魔王は、まだ生きている」

「……うん」

「もし」


少しだけ、言い淀む。


「もし、死んでいたのなら——そこに表示はされないはずだ」

「……そっか」

「少なからず、繋がっている」

「……うん」


帳簿を、胸に引き寄せる。


「それに」

キリが、続ける。


「考えてみろ」

「……?」

「魔王だぞ、あいつは」


「そう簡単に死ぬようなやつじゃない。少なくとも——俺が聞いてきた話が本当なら」


「聞いてきた話?」

「魔族領にも行ったことがある」

キリの声が、少しだけ低くなる。


「そこでは、魔王の話は嫌でも耳に入ってきた」

「……どんな話?」

「混沌としていた魔族領を、数十年で統一した」

「……」

「魔獣被害で壊滅しかけた都市を、物流網ごと作り替えて立て直した」

「物流網……」

「飢饉の年には、魔族領全域の食糧管理を一人で組み直したとも聞く」


その言葉を聞いた瞬間。

結衣の脳裏に、あの光景が浮かんだ。

小さな体で帳簿を叩きながら。


『この在庫管理は破綻している』


真顔で言っていたノクスが。

(……言いそう)


「あと、税制改革もやったらしい」

「うん、やりそう」


思わず即答した。

衝立の向こうで、キリが少し黙る。


「……否定しないんだな」

「だって、面接で言ってたし」

「面接?」

「『効率的な税制の構築が得意です』って」

「……」

「ちなみに、広域殲滅魔法は掃除にも応用可能、とも言ってた」

「…………」

「在庫処分にも使えるって」

「……魔王は、時々よく分からない」

「分かる」


小さく、笑い声が漏れた。

暗い部屋の中で。衝立を挟んで。

たったそれだけのことなのに——さっきまで胸を塞いでいたものが、少しだけほぐれた気がした。


「キリ」

「……なんだ」

「ありがとう」

「……」

「怖いって言ったら、ちゃんと答えてくれたから」


少しの沈黙。


「当然のことだ」

「それでも」

「嬉しかった」


キリは、答えなかった。

衝立の向こうで、蝋燭の火が小さく揺れている。影が、静かに動いた。

やがて。


「……早く寝ろ」

ぼそりと、聞こえた。


「うん」

結衣は、帳簿をそっとベッドサイドに置いた。

目を閉じる。

さっきより、体が軽い気がした。




小さく、寝息が聞こえてきた。

キリは、深く息を吐く。


「……アイル」

「うん」


衝立の向こうから、間髪入れずに返ってくる。


「起きていたんだろう」

「まあね」


ひょっこりと、アイルが顔を覗かせた。いつも通りの穏やかな顔をしている。


「薬草を焚いていたんだろう」

「……気づいてた?」

「匂いでな」


キリの視線が、ゆらりと揺れる蝋燭に向く。ほのかに甘い香りが、部屋に漂っている。

睡眠を促す薬草だ。火で炙ると、嗅いだ者の眠気を引き出す。効果は強くはない。だが——初めて嗅ぐ者には、十分に効く。


「助かった」

「結衣ちゃん、頑張り屋さんだからね」

アイルが、静かに言う。


「初めてのことがいっぱいで、眠れなくなると思って」

衝立の向こう。眠っている結衣の顔を思い浮かべるように、アイルの表情が緩んだ。


「怖いって、ちゃんと言えたのは良かったけど」

「……ああ」

「言えない子だと思ってたから」

「俺もそう思っていた」


少しの沈黙。蝋燭の火が、小さく揺れる。


「アイル」

「うん?」

「あの帳簿を、どう思う」


キリが、真剣な目でアイルを見た。

アイルの表情も、すっと変わる。


「……あんな魔術、見たことがない」

静かに、でもはっきりと言った。


「僕もキリも触ったけど、反応しなかった」

「ああ」

「だけど、結衣ちゃんが触った途端——」

「文字が浮かんだ」


二人の視線が、机の上の帳簿に向く。


「しかも、書かれているのは日本語だ」


キリが、腕を組む。「ひらがな、カタカナ、漢字——俺たちは勉強してきたから読めた。だが」

「そうじゃなければ」

アイルが続ける。


「この世界で読めるのは、結衣ちゃん以外にいなかった」

「……意図的に、そう設計されているように感じる」

「そうだね」


「それに、小さく刻まれてる聖印も気になるし」

アイルが黒い帳簿を思い浮かべる。


「一見すると、ただの飾りに見えるけど」

「人間の勇者に現れる刻印と、同じ形だ」

「うん」

「解析できれば良いのだが」


キリが、眉を寄せる。


「下手に触って、使用者である結衣に何かあってはたまらない」

「そうだね」


アイルが、静かに頷く。


「様子を見つつ、何かあればフォローできるようにしよう」

「うん」


今度は、深く頷いた。

二人の間に、静かな沈黙が落ちる。

蝋燭の火が、ゆらりと揺れた。


「……結衣ちゃんには」


アイルが、ぽつりと言う。


「あの帳簿が何なのか、まだ話さなくていいと思う」

「ああ」

「今は、魔王を見つけることだけ考えてもらえれば十分だよ」

「……同意する」


キリは、もう一度蝋燭の火を見た。

衝立の向こうから、穏やかな寝息が聞こえてくる。

(無事に、朝を迎えろ)

それだけを、静かに思った。



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