第86話 崩れる日常
「あれ?アイルとキリは?」
いつもと同じ朝のはずだったのに、テーブルの上に並べられた料理はいつもより少ない。
そして、アイルとキリの姿もいない。
「二人なら、今朝発った」
ノクスの言葉に、結衣は瞬きをした。
「発ったって……どこに?」
「以前から話していた商業施設の候補地を探すため、各地を回ってもらう」
「……聞いてない」
昨日は結局キリにも会っていないし、アイルもそんな話は何も言っていなかった。
(やっぱり、この前様子がおかしかったことと関係があるのかな……)
キリが酔っ払っていた夜。
あの夜から、兄の様子もエレンの様子もどこかおかしい。
(私に言えないこと、なのかな……)
ふと、二人が座っていた席を見る。
いつもなら、アイルが楽しそうに話して、その隣でキリが呆れたように口を挟んでいる。
それが今日は、二つとも空いていた。
ずっと一緒にいたからだろうか。
急に二人分の空間がなくなったようで、胸の奥が少しだけ寂しい。
(……行ってらっしゃいくらい、言いたかったな)
「結衣」
顔を上げると、ノクスがこちらを見ていた。
「あの二人には連絡手段を持たせている。何かあるなら、話すといい」
「……うん」
仕事だから、仕方がない。
そう言い聞かせるように繰り返して、結衣はまず目の前の食事を食べることに集中した。
豊はぼんやりとベッドの上で天井を見上げていた。
ぎこちない。
一言で表すのなら、その言葉がぴったりだった。
あれからエレンと話そうとすれば、するりと躱されてどこかに消えてしまう。
まるで、人間の国にいた時のように、今度はエレンが豊から逃げているように感じた。
(別に、いいんだ。エレンが気まずくたって、あれは酔ってたんだし…)
柔らかな感触。
ほんの少しの間だけだったのに、豊ははっきりと覚えている。
気持ちがソワソワして落ち着かない。
こういう時は動いていれば考えなくて済むのに、今の豊には出来る仕事がなかった。
(ガルドのところに混ぜてもらおうかな…)
いつでも来い、と何故かボロボロになったガルドに言われたのは、つい先日のことだ。
剣は振れないが、体は動く。
豊はベッドから飛び起きて、兵士たちのいる方へと向かった。
兵士たちの掛け声と、剣を打ち合う音が響く。
ガルドを探してキョロキョロと周りを見ていると、不意にエレンとよく似た濃い橙色の髪を見つけた。
甲冑を身に纏って、一回りも大きな獣人と対峙している。
「エレン!」
考えるより、先に体が動いていた。
「こんなところにいたのか――」
言いかけて、振り返ったのは見たことのない獣人だった。
「…誰だ?」
「…すみません、間違えました」
(髪の色が似てたからだ。甲冑も着てたし……)
そう自分に言い聞かせる。
けれど、何故あんなに嬉しくなって駆け寄ったのか。
豊はそこまで考えず、ガルドを探して歩き出した。
「エレン、体調は平気?」
「平気だよ」
(兄妹揃って同じこと聞いてる)
エレンがいるのは結衣の部屋だった。
豊と顔を合わせづらくなってはや5日。
とうとう逃げる場所がなくなったエレンが身を寄せたのは結衣の部屋だった。
「ごめん、結衣ちゃん。理由は言えないけど匿って」
「えっ?いいけど…」
突然やってきた自分を躊躇いもなく受け入れてくれる。
本当に良い子だと思う。
二人でお茶を飲んでいると、結衣が恐る恐る口を開いた。
「お兄ちゃんと、喧嘩でもした?」
「…。」
「言いたくないなら、いいんだけど…」
カップを置いて、エレンの目をしっかりと見る結衣。
「お兄ちゃん、しっかり話せば聞いてくれると思うよ?」
お兄ちゃんが何かしでかしたなら仕方ないけど、そう言って笑う結衣に、エレンは困ったように眉を寄せた。
「違うんだ。やらかしたのは、どっちかというと自分の方で…」
思い出すだけで、ため息が出る。
下を向いてしまったエレン。
「事情は分からないけど、エレンの気が済むまでいてくれていいよ」
「…ありがとう」
「私、ノクスの部屋で書類手伝ってくるから」
少しだけはにかみながら言う結衣の表情は柔らかい。
素直に感情を出せる結衣が、今のエレンには眩しかった。
一人になった部屋の中。
エレンはソファに横になった。
「どうしたらいい…」
やることは分かってる。
いつもみたいに笑顔で、何もなかったように振る舞えばいい。
“ごめんごめん、この前は本当に酔ってたみたいで、記憶があやふやなんだよね”
そう言って、全てなかったことにしてしまえば良かったんだ。
”こんな傷だらけの…こんな男みたいな女……気持ち悪いだろ”
”それとも…”
”君は…違うの?”
けれど、自分の言ってしまったことが頭にすぐに浮かんで上手く笑顔が作れない。
「いつもやってただろ…なんで出来ないんだ…」
笑って誤魔化すことなら、今まで何度もやってきた。
勇者だから大丈夫。
傷なんて気にしていない。
一人でも平気。
そうやって笑えば、誰もそれ以上は踏み込んでこなかった。
なのに。
『俺は、そいつとは違う』
「……っ」
あの言葉だけが、どうしても頭から離れない。




