第84話 進む人、終わる人
「俺は酔ってない」
「うん。知ってる、酔ってないんだよね」
アイルはぐったりと体を預けるキリを半ば背負いながら廊下を歩いていた。
どうにか部屋に辿り着いたのはいいものの、先ほどからキリは酔ってないの一点張りだ。
「しまった。水を切らしてた。…水もらってくるから、ここで大人しく休んでるんだよ?」
ソファに横になっているキリに声をかけ、アイルは部屋から出た。
「暑い…」
少しもしないうちに、キリはソファからむくりと起き上がる。
そのままフラフラとおぼつかない足取りで部屋を出た。
キリの視界はグラグラと揺れている。
体にも力が入らないし、一体自分がどこを歩いているのか分からない。
その内に疲れてしまって、キリはその場に倒れ込んだ。
レティシアに髪を整えてもらいながら、結衣はぼんやりと鏡の中の自分を眺めていた。
(なんていうか……特に変わってない気がする……)
ノクスと互いの気持ちを確かめ合った。
けれど、やることは今までと同じだ。
ご飯を食べた後はノクスの部屋で契約印を更新して、一緒に話をして。
今日だって、いつもと同じように「おやすみ」と言って別れた。
(……両思いになったら、何か変わるものじゃないのかな)
そもそも結衣にとって、恋人という存在自体が初めてだ。
両思いになった、その先をどうすればいいのかもよく分からない。
(恋人って……何するんだろう)
真っ先に浮かんだのは、デートだった。
けれど、ここは現代ではない。気軽に二人でどこかへ出かけるような場所もないし、そもそもノクスは魔王だ。
(じゃあ……手、繋ぐとか?)
想像してみる。
ノクスの隣を歩きながら、あの大きな手に自分の手を重ねる。
(……いつ!?)
自分から?
それともノクスから?
(ハグは……したけど……)
そこまで考えて、昨夜のことを思い出す。
腕の中にすっぽりと収まった感覚まで蘇ってきて、結衣は鏡の中の自分から目を逸らした。
その次は…。
(……キス、とか……?)
不意にノクスの顔が浮かんだ。
いつも自分を見下ろしている赤い瞳が近づいてきて――
「……っ!」
結衣は慌てて両手で頬を押さえた。
(待って待って! じゃあ、その後は……)
そこまで考えた瞬間、さらに顔が熱くなる。
(無理無理無理!)
「……レティシア」
「はい」
「その……ちょっと散歩に行きたいなって……」
「今からですか?」
「うん。なんだか、その……落ち着かなくて」
レティシアは鏡越しに結衣を見つめたが、それ以上は何も聞かなかった。
「では、羽織るものをご用意いたします」
もう夜も遅い時間だからと、レティシアからは少しだけですよと言われて部屋から出る。
(スマホがあったらな…)
もちろん、今ここにあったところで使い物にはならないけれど、手軽に調べられる存在があればと考えてしまうのは仕方ない。
今なら、ノクスが散々感心していたのが身にしみて分かる。
そんな時だった。
何となく曲がった先の廊下に、何かがいたのは。
「……キリ?」
見慣れた銀髪。
それが、廊下のど真ん中に倒れている。
「キリ?大丈夫!?」
慌てて駆け寄り体を揺さぶるが、小さくうめく声がするばかりだ。
「具合悪いの?こんなところでどうして…」
「……ない」
「…?」
ボソリと呟いたキリの言葉が聞き取れなくて耳を近づける。
「俺は…酔ってない」
「「…。」」
一人では起こすことが出来ず、レティシアと二人でキリを起こす。
「キリ、起きれる?部屋まで戻らないと…」
壁にもたれかかるようにして座ったキリは、そのままずるずると横へ倒れて…。
「ちょっと!キリ、しっかりして…!」
頭を打たないように慌てて支えるが、キリはお構いなしに体重を乗せてくる。
「レティシア、誰か……ううん。アイルを呼んできてくれる? あと、ついでにお水も」
「しかし、ユイ様をお一人にするわけには……」
「でも、キリを一人にもできないし……。大丈夫。ここで待ってるから」
レティシアは僅かに迷うような表情を見せた。
「……かしこまりました。すぐに戻りますので、決してここを離れないでください」
「うん。お願い」
レティシアの背中が見えなくなると、結衣はキリの様子を見た。
顔は赤いし、目は半分開いていないし、頭はカクカクと右に左に揺れている。
「もし気持ち悪くなったらすぐに教えてね、キリ」
聞いているのか聞いていないのか分からないが、とにかく今はレティシアを待つしかない。
「……くしゅん」
「……。キリ、寒い?」
「寒くない」
「今くしゃみしたよ?」
「してない」
「したよ」
もう、と言いながら結衣は自分が着ていた上着をキリにかけた。
ひんやりとした空気が、結衣の体温を奪って身震いする。
たまらず両手で自分の腕をさするが、あまり効果はなかった。
(レティシア〜早く帰ってきてー!)
レティシアの消えた廊下の方を見るけれど、まだその姿はない。
「…寒いのか?」
「…私はいいから、キリがちゃんと着てて」
酔っ払いのくせに、そういう所だけ目敏い。
キリが倒れないように横に座る。
足元からも、ひんやりとした空気が伝わってきて余計に冷える。
結衣が再び、レティシアの消えた方を見た時だった。
キリの伸ばした手が、後ろから包み込むように回される。
そのまま交差した手が、結衣の肩を掴むように掴んだ。
抱きしめられている…そう気づいた時には、背中にキリの体温を感じた。
「き、キリ…!?」
キリの息遣いが、すぐ横から聞こえる。
「……あったかい」
「え?」
「結衣……あったかいな」
普段よりずっと掠れた声。
「キリ、酔ってるんだから……」
「酔ってない」
「酔ってるよ……」
「……そうかもな」
初めて認めた。
結衣が驚いて振り返ろうとすると、肩に回された腕に少しだけ力が込められる。
「結衣…」
「……好きだ」
「…え?」
キリは抱きしめた結衣の体が驚いたように固まったのを感じた。
鼻腔をくすぐる、ほのかな甘い香り。
ずっと近くにあったはずなのに、こんなにも近くに感じたことはなかった。
こんな風に抱きしめることなんて、もう出来ないかもしれない。
だから、今だけは…。
震えそうになる指先に力を入れると、結衣の体がぴくりと動く。
「なんてな」
「…へ?」
しばらくすると、結衣の体がプルプルと震え出した。
「か、揶揄ったのね!?」
「結衣は妹みたいなものだ。喜べ、結衣。お前には豊の他に兄が二人もいるぞ」
「こんな酔っ払いの兄はいりません!」
「俺は酔ってない」
「もう、また始まった!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめてくるキリに文句を言っていると、アイルとレティシアが小走りでやってきた。
「結衣ちゃん、ごめんね。キリ、酔うと絡んでくるんだよ」
「俺は酔ってない」
「そう、だね。…ほら、キリ。立って」
何とか立ち上がったキリを、アイルは半ば背負うようにして支える。
「あ…結衣ちゃんの上着」
キリが羽織ったままの上着を見て、アイルが困ったように眉を下げた。
「いいよ、持っていって。キリが風邪引いたら大変だから」
「…本当にごめんね、結衣ちゃん」
「ユイ様、すぐにお部屋に戻りましょう。ユイ様の体が冷えてしまいました」
「アイル、おやすみ。キリもおやすみ!」
「うん、おやすみ」
くしゅん、と背後で結衣がくしゃみをする音が聞こえた。
相変わらず背中には、体重を預けたままのキリがいる。
アイルはキリが歩けるように、ゆっくりと進み始める。
脳裏に過ぎるのは、結衣を抱きしめたキリの姿。
部屋に戻った時にはキリの姿はなく、慌てて近くを探しているとレティシアに会った。
「キリ様が、廊下で倒れています」
「…どこ!?」
「こちらです」
レティシアが先導し、アイルが続く。
「そこの角を曲がった先です」
「……好きだ」
「「…!!」」
ちょうど曲がった先にいたのは、結衣を抱きしめるキリの姿だった。
「ユイさ…」
「待って」
思わずレティシアの手を引いて、廊下の影に隠れる。
「何をされるのですか。ユイ様が…」
「お願い、今はほんの少し…ほんの少しでいいから、待ってあげて」
「……もし、これ以上の動きがあれば物理的にお止めします」
「…うん」
キリの想いが痛いほどアイルには伝わってくる。
大切な人にはすでに大切に想う人がいて、傍にいたいのにいると苦しい。
かつてアイルも味わったことのある苦い記憶だ。
「キリ…偉かったね」
一歩一歩進む度に、ポタポタとアイルの肩に雫が落ちる。
「結衣ちゃん、困らせたくなかったんでしょう?」
「…。」
返事の代わりに、キリの頭がアイルの肩にぶつかる。
「キリは本当に良く頑張った」
偉いよ…そう言って、アイルがキリの頭を撫でた。
「うる、さい…同い年、だろ…子供扱いすんな……っ」
結衣の上着を握りしめる手が震えていた。




