第81話 一歩ずつ
(ベルンさんが禁制薬草を人間領に流したことは、知ってた)
(だから罰を受けてることも知ってる)
でも――。
(その先に、エレンみたいな人がいるって……私、ちゃんと考えてた?)
先ほどまでと違い、部屋に行くまでの道のりがやけに重い。
結衣の変化に気づいたノエルがすかさず声をかけた。
「ユイ様?お加減が悪いのでしたら、私が持っていきます」
ノエルの言葉に、結衣は手元の書類に視線を落とした。
頭に浮かぶのは、結衣よりも小さな白い山羊の姿。
ちょっとだけおっちょこちょいで、怖がりで、結衣が緊張することなく話せた存在。
「…大丈夫」
その言葉は、ノエルに伝えたい言葉だったのか、自分を鼓舞するためのものなのか分からなかった。
戻ってきた結衣の様子がおかしい。
書類を持っていくついでにベルンの様子を見にいくと行って出て行った結衣。
やけに時間がかかっていたとは思ったが、行くまでに何かあったのだろうか。
ノエルの気配がどこかピリピリとしているのも気になるが、大体ノエルを怒らせるのはガルドの仕業だ。
結衣が気に入っているという緑茶を入れ終えたノエルに目配せして退室を促す。
二人きりになっても、結衣の視線は落ちたままだった。
「どうした」
「…え?」
ノクスの言葉にようやく反応した結衣は、自分の手が止まっていたことに今気づいたのだろう。
「ごめん…ちょっと集中が切れちゃっただけだから…」
「…。」
続きを書こうとして筆を持ち、そして結衣は躊躇うように口にした。
「嘘…本当はちょっと、気になることがあって…」
結衣は筆を完全に置いて、近くにあったカップを手に取った。
「…ノクスは、その…エレンが薬を使われたって話、知ってる?」
「あぁ。報告は受けている」
ノクスがなんでもないことのように話すのが結衣には少しだけショックだった。
(知らなかったの、私だけ…なの?)
「本人の希望だ。結衣が心配するから、と」
久しぶりに再会した時、エレンはただ結衣の身を案じてくれた。
大変だったね、と。
結衣にはそれがたまらなく悔しかった。
(エレンが大変な時に、私は…)
考えてみれば、エレンの様子はいつもと違っていた。
雰囲気は丸くなっていたけれど、米屋にいた時のような飄々とした感じはすっかり形を潜めていた。
それは、体調が悪かったからなのだと、今は断言できる。
「私、何も知らなかった…」
「知らされていないのだから当然だ」
「そうじゃなくて…」
結衣は静かに首を横に振った。
「ベルンさんがやったことは知ってた。でも、その先をちゃんと考えてなかった…」
禁制薬草。
持つことも栽培することも禁止されているのだから、余程危険なものなのだろう。
けれど、結衣にとってそれは想像することしか出来ない。
それが自分の身近な人に使われる未来なんて、思いもつかなかった。
「それで、お前はベルンに機会を与えてほしいと願ったことを、後悔しているのか?」
「……分からない」
結衣は膝の上で、ぎゅっと手を握った。
「ううん……違う。後悔してるわけじゃないと思う」
「ベルンさんに死んでほしかったなんて、今も思わない。ちゃんとやり直してほしいって思ってる」
「でも……」
エレンの笑った顔が浮かぶ。
「その薬草で、本当に傷ついた人がいるって分かったら……どうしたらいいのか分からなくなったの」
ベルンの良いところを知っている。
ちょっとだけおっちょこちょいで、それでも一生懸命頑張る姿を見ている。
エレンが考えていることを中々外に出さない人と言うことも知っている。
でも、本当は思いやりがあってとても優しい人だ。
思い悩む結衣に、ノクスは静かに声をかけた。
「ならば、無理にどちらかを選ぶ必要はないのではないか」
「……え?」
「ベルンにやり直す機会を与えたいと思うことと、エレンが傷つけられたことに憤ることは、別の話だ」
結衣はゆっくりと顔を上げた。
「一方を思えば、もう一方を許さねばならないわけではない」
「でも、今日ベルンさんに会ったのに……何も言えなかった」
ノクスとの会話で思い出されるのは、過去に何も言えなかった自分。
それをまた、繰り返している…。
「ベルンさんに、私言ったのに…”誰だって間違えるから、大事なのは、その後どうするか”なんて…」
ちっとも進歩してない…。
そう言って肩を落とす結衣に、ノクスは小さく笑った。
「もう自分で答えは出ているではないか」
「…?」
「以前のお前は、言えなかったまま終わった。だが今のお前は、言えなかったままで終わらせたくないと思っている」
「…!」
「大事なのは、その後どうするか、なのだろう?」
自分で言った言葉なのに、ノクスが言うと不思議と力強く感じる。
結衣は膝の上で握っていた手を、ゆっくりと開いた。
「……私、もう一度ベルンさんと話してくる」
「あぁ」
すぐに行けばセブランさんの仕事を邪魔してしまう。
ノクスに言えば、夕食前の時間をもらえるように掛け合ってくれた。
今はベルンと二人で部屋の中。
「ユイ様、どうされたのですか?」
首を傾げるベルンに、結衣はゆっくりと口を開いた。
「私の友達が…禁制薬草を使われたみたいなの」
「…!!」
途端に、ベルンの表情は苦しいものに変わった。
「そう、でしたか…」
伏せられた目は、意を決したように結衣を見る。
「ユイ様、どうぞお好きなだけ私を責めてください」
「ユイ様には、そうなさる権利があります」
「……責めてほしいの?」
ベルンは答えなかった。
「私、ベルンさんを責めに来たわけじゃないよ」
「……では、何故……」
「分からないから、来たの」
ベルンがゆっくりと顔を上げる。
「ベルンさんにやり直してほしいって思ってる気持ちは、今も変わってない。でも……エレンがその薬で苦しんだって知ったら、どうしたらいいのか分からなくなった」
結衣は膝の上で手を握った。
「今日ここに来た時も、本当は聞きたかった。でも、ベルンさんの顔を見たら何も言えなかった」
「だから……もう一回来たの。今度はちゃんと話そうと思って」
ベルンには、結衣の真っ直ぐな気持ちが嬉しくもあり、同時に心の底から湧き上がる後悔に身を震わせた。
自分とこんなにも向き合おうとしてくれる人など、エルバの他にベルンは知らなかった。
だからこそ、ベルンは素直に口を開く。
「私は、人間などどうなろうと構わない…そう思っていました」
結衣の視線が、悲しげなものに変わる。
その表情の変化さえ、今のベルンには痛かった。
「ユイ様と出会って、初めて分かったのです」
どうでも良いと思っていた人間…その存在が、ちっぽけな自分に寄り添ってくれた時、初めて思い知らされた。
「私がどうでもよいと思っていた人間にも……当然、家族がいて、大切に思う者がいて、苦しめば悲しむ者がいるのだと」
ユイ様に手を差し伸べられるたび、胸が痛んだ。
この手を取ることを、自分は許されているのだろうかと。
そして、ユイ様が笑うたびに思う。
自分はかつて、この人と同じように笑い、泣き、誰かを大切にする者たちのもとへ、禁じられた薬草を送り出していたのだと。
肩を震わせながら続けるベルンの言葉に、結衣は膝の上の手に力を込める。
「……今さら、後悔したところで遅いことは分かっています」
ベルンの声が震える。
「私がしたことが消えるわけでも、傷ついた方々が元に戻るわけでもありません」
「それでも……私は……」
その先の言葉は続かなかった。
「……私、ベルンさんのことを許すとか、許さないとか……そういうことは言えないと思う」
ベルンが顔を上げた。
「傷ついたのは、私じゃないから」
「……はい」
「エレンは、私の大切な友達なの。だから、苦しんでたって知って……悲しかったし、正直、ベルンさんとどう話したらいいのか分からなくなった」
「……」
「今だって、全部整理できたわけじゃないよ」
「でも、分からないからって、何も言わないままにはしたくなかった」
結衣はベルンをまっすぐに見た。
「私もまだまだだし……これからベルンさんとどう接したらいいのか、分からなくなることもあると思う」
「それでも、そのたびにちゃんと考える」
「私なりに、ベルンさんと向き合っていきたい」
「……ベルンさん」
「はい」
「私、ひとつだけ言っておきたいことがあるの」
結衣は少しだけ言葉を探した。
「ベルンさん、これからずっと……自分は笑っちゃいけないとか、幸せになっちゃいけないとか、思いそうだから」
「……」
ベルンの肩が僅かに揺れた。
図星だったのだと、それだけで分かった。
「でも、それは違うと思う」
「……違う、のですか?」
「うん。だって、自分をずっと苦しめることと、罪を償うことって……同じじゃないと思うから」
ベルンは何も答えなかった。
「忘れちゃいけないと思う。ベルンさんがしたことも、そのせいで傷ついた人がいることも」
「……はい」
「でも、それを忘れないことと、ベルンさんが一生笑っちゃいけないことは、別だよ」
「……」
「苦しむために生きるんじゃなくて……もう同じことをしないために生きる方が、私は大事だと思う」
「ですが……私が幸せになることを、傷ついた方々が知れば……」
「…………そうだね」
「それを許せないって思う人も、いるかもしれない」
「私には、その人たちに許してあげてなんて言えない」
「でも……だからってベルンさんが自分を壊しても、その人たちが元に戻るわけじゃないよ」
「だったら、ベルンさんにできることを続ける方がいいんじゃないかな」
「もう同じことが起きないようにするとか……今度は誰かを助ける側になるとか」
結衣は立ち上がってベルンの側に立つ。
俯くベルンの小さな手を取った。
「ユイ様……私は……」
「うん。分かってる」
結衣は手を離さなかった。
「だから、これからだよ」
「大事なのは、その後どうするか」
ノクスは結衣が戻ってくるのを静かに待っていた。
やがて、部屋に戻ってきた結衣。
「…言えたよ。ベルンさんに、私の今の気持ち」
「…そうか」
少しだけ疲れているけれど、どこかスッキリしている結衣の顔を見て、ノクスは静かに頷いた。
ノクスは結衣の頭に手を伸ばそうとして、止まった。
そして、そのまま結衣を自身の腕の中へと引き寄せた。
すっぽりと収まった結衣は、安心したように身を委ねている。
そのまま小さな頭を撫でる。
「…ノクス、ありがとう」
「私は何もしていない。決めたのは結衣だ」
返事をするように、結衣の手がノクスの服を握った。




