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第74話 敵に塩を送る


「…。」

「…。」


アイルとキリは、困ったようにお互いを見た。

ノクス本人から頼み事があると呼び出されて部屋まで出向いて見れば、当の本人は心ここにあらずだ。


書きかけの書類。

ぼんやりと机を見ている魔王。

こちらが声をかけても、先ほどから生返事しか返って来ない。


「おーい!聞いてる?」


ノクスの目の前でアイルが手を振ると、今やっと気づいたようにノクスがたじろいだ。


「…すまない、少々考え事をしていた」


ノクスが気を取り直したように出した書類は、結衣の世界で見た商業施設の模倣施設を作る計画だった。


「流石にあそこまでの規模のものは作れないが、試験的に小規模なものを…」


ある程度の概要を話し始めたノクスは、普段通りに見える。

けれど。


「それじゃあ、結衣ちゃんにも協力してもらった方がいいんじゃない?」


アイルの言葉にキリが頷くが、”結衣”という言葉が出た瞬間、ノクスの動きは止まった。


「結衣、か…」


途端に、先ほどまで普通だったノクスの雰囲気は一変する。

再び落ちた沈黙に、アイルとキリは顔を見合わせた。


「…結衣ちゃんと、何かあった?」

「…。」


アイルが恐る恐る尋ねると、ノクスの表情はさらになくなる。


「聞いてるのか?」

キリが改めて問う。


「私は…」


ようやく開いた口から漏れた声は、妙に重かった。





「…結衣に嫌われたかもしれん」

「…は?」


思わず声を上げたのはキリだ。

さっき廊下で走り去った結衣の態度は明らかに変だった。

顔も赤かったし、目も微妙に潤んでいて、挙動不審で。


「…一体何をしたんだ」

イラついたようにキリの言葉に力が入る。


「…肩に、触れようとしたんだ」


「それだけ?」

「その前に、手に触れた」


ノクスの言葉には、明らかに何か説明が足りない。


「もっと詳しく話してくれる?」


アイルの言葉に、ノクスは淡々と説明をする。


「昨日、結衣に触れてもいいかと尋ねた」

「……え?」


「結衣は駄目ではないと言った。だから抱きしめた」

「……。」


キリの眉間に皺が寄る。

けれど、ノクスは全く気づいていない。


「結衣も私の背に腕を回した。嫌がってはいないように思えた」

「……そこまで詳しく言わなくていい」


「詳しく話せと言ったのはお前たちだろう」

「アイルが言ったんだ!」


意味が分からないという表情のノクスに、今にも掴みかかりそうな勢いのキリ。

アイルはキリの背中を宥めるように軽く叩いた。


「それで?」


アイルが続きを促すと、ノクスは口を開く。


「それで今日、もう一度触れたいと思った」

「……。」


「仕事中も、結衣のことが気になって集中できなかった」

「それで?」


「休憩を提案した」

「なんで?」


「……触れたかったからだ」



キリの肩が怒りに震えている。

アイルはそんなキリを気の毒に思いながら、廊下を早足で走り去った結衣の表情を思い出す。


(一番の被害者は結衣ちゃんだけど、ね)


「結衣が私の体調を心配して、額に触れた」


「それでクロードを呼ぼうとしたから、手を掴んだ」



「……それで?」


「離したくないと思った」


キリの眉間の皺が、さらに深くなる。


「手首に触れて、そのまま手を取った」


「結衣は嫌がらなかった。少なくとも、そう見えた」



ノクスの視線が、自分の手へと落ちる。


「だが、その後だ」

ほんの僅かに、声が沈んだ。


「肩に触れようとしたら……逃げられた」

「……。」


「昨日は許された。今日も、手を取った時には拒まれなかった」



だから――。


「また触れてもいいのだと、勝手に思った」



先ほどまでとは違う声音に、キリの眉が僅かに動く。


「……結衣が嫌がることをしたかったわけではない」


ノクスは、自分の手をじっと見つめた。


「ただ、触れたかった」

「……。」


「それだけだったんだ」


すっかり落ち込んでいるノクスは、きっと魔王幹部たちが見れば驚くことだろう。

こんなにも一人の人間の存在に振り回される魔王は正直言って見ていて面白い。


けれど、アイルは素直に笑う気にはなれなかった。

ちらりと隣を見る。

キリは黙ったまま、ノクスを見ている。

その表情はいつもと変わらないように見えて、長く一緒にいるアイルには分かる。


(……キリ)


結衣を見る弟の視線には、とっくに気づいていた。

そして、おそらくキリ自身も気づいている。


結衣が誰を見ているのか。


恋というものは、どうしてこうも思い通りにならないのだろう。

それをアイル自身も、少しだけ知っている。

だから今は、何も言わなかった。


「……違う」

不意に、キリが呟いた。


「何がだ」

「結衣は、お前を嫌ってなんかいない」


ノクスが僅かに眉を寄せた。


「……何故、お前に分かる」


キリはすぐには答えなかった。


分かる。

ずっと見ていたから。

結衣が誰にでも優しいことも。

困っている時ほど笑うことも。

そして――誰を見ている時だけ、その表情が少しだけ変わるのかも。


「…見てれば分かる」

「……?」


ノクスの眉間に、さらに皺が寄った。


「何を見れば分かるんだ?」

「…。」


キリのこめかみが、ぴくりと動いた。


「だが、今日の結衣は明らかに私を避けていた」

「だから、それは――」


「昨日も、本当は嫌だったのかもしれない」

「……。」


「結衣は他人を拒絶するのが苦手だからな。私に気を遣って許した可能性も――」

「…………。」


「そう考えれば、今日逃げたことにも説明が――」

「いい加減にしろ!」


「結衣は、お前を心配してここまで来たんだぞ!」


ノクスが目を見開く。



「元の世界に帰れる保証もない。それでも、お前を放っておけないって、ここまで来たんだ!」

「……。」


「あいつがどんな気持ちでここに来たと思ってる」

キリの拳に力が入る。


「それをお前が勝手に『嫌われた』で終わらせるのか?」

「キリ…」


アイルが小さく名前を呼ぶ。

けれど、もう止まらなかった。


「結衣がどれだけお前を――」

そこまで言って、キリは口を噤んだ。



「……どれだけお前を大切にしてるか、本当に分からないのか?」


「……結衣が私を大切にしていることは、分かっている」


ノクスの言葉に、キリの眉間の皺がさらに深くなる。


「だが、それと今回のことに何の関係がある?」

「………。」


キリのこめかみに青筋が浮かんだ。


「キリ。落ち着いて」

「これが落ち着いていられるか!」


今にも魔術を魔王に放ちそうな勢いのキリを宥めながら、アイルはノクスに向き直った。


「とにかく、一度しっかり結衣ちゃんと話してきた方がいい」

「……そう、だな」


ノクスはしばらく考え込んだ後、机の上の書類を閉じた。


「結衣を探してくる」


先ほどまでとは違い、その声には僅かに力が戻っていた。



「最初からそうしろ!」

キリの怒声が、部屋に響いた。

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