第72話 君を想う
「…ただいま」
「うん、おかえり」
たった一言。
その言葉を聞くだけで、体が軽くなるような錯覚を覚えた。
アイルに巻き込まれる形で、結衣と密着することになったけれど、結衣は米屋の頃と同じように笑顔で迎えてくれる。
(温かい)
アイルが結衣や豊を好きになる気持ちが、キリには痛いほど良くわかった。
この二人と一緒にいる時は、まるでここが帰る場所なんだと錯覚してしまうほど、心地が良い。
キリにとって結衣は、側にいるだけで心地の良い特別な存在だ。
むしろそれ以上に――。
けれど、キリは胸の内に湧き上がる感情をそっと仕舞い込む。
久しぶりに結衣に再会したからこそ分かる。
皆揃っての夕食。
賑やかな会話の中で、不意に見せる結衣の表情。
魔王を見る時だけ、僅かに変わる笑顔。
今まで人の感情を感じ取り、計算し、考えてきたからこそ余計に分かる。
結衣がこの中で特別に大切に想っている相手。
結衣が笑う。
豊の話に笑った時とは、少し違う。
アイルに抱きつかれて笑った時とも違う。
ノクスが何かを言って、結衣が振り返る。
その瞬間、ほんの僅かに目元が柔らかくなる。
(……やっぱり)
それだけで十分だった。
誰より近くにいたいと思った相手が、誰を見ているのか。
分からないほど、キリは鈍くない。
長い廊下をアイルと二人で歩く。
「僕たちに頼みたいことって何だろうね?」
「…あぁ」
朝食の後、部屋に来て欲しいと言われて、今はノクスの部屋へと向かっている最中だ。
どこかぼんやりとしているキリの様子にアイルは気づいているけれど、チラリとキリの横顔を見たアイルはあえて何もないように振る舞った。
そんな時。
「…結衣?」
廊下を早足でやってくる結衣の姿。
明らかにいつもと違う様子に、思わずキリが声をかけた。
「どうした?」
息も乱れているし、心なしか顔が赤い。
それに、ほんの少しだけ目が潤んでいるようにも見えた。
まさかアイルやキリに出会うとは思っていなかったのか、結衣の挙動はますます乱れた。
「な、何でもない」
アイルとキリとも視線を合わせようとしない結衣は、何かにひどく動揺しているようにも見える。
そのまま二人の横を早足に通り過ぎようとした結衣の手を思わず掴んだのはキリだ。
「何かあったのか?」
「大丈夫だから」
そう言って笑おうとする結衣。
けれど、その笑顔はあまりにもぎこちなかった。
米屋にいた頃から知っている。
結衣は、本当に大丈夫な時ほど「大丈夫」とは言わない。
困っている時ほど、誰にも心配をかけまいと笑う人だ。
だからこそ――。
「…俺じゃ、やっぱり頼りないのか?」
「…え?」
目を瞬かせる結衣。
「…キリ」
穏やかな声だった。
アイルがキリに視線だけで合図すると、我に帰ったキリが結衣の手を離した。
「…悪い」
掴んでいた手を離す。
「結衣ちゃん」
「…?」
「何か困ったことがあった?」
「…。」
「僕たちで力になれることがあったら言って?」
アイルの言葉に、結衣が口を開こうとして、そしてまた閉じた。
思い出すだけで顔に熱が集中する。
「ほ、本当に、何でもないの…!」
「そっか」
優しい声だった。
アイルには、何となく結衣が何に困っているのか、少なくとも原因となる人物の特定だけは出来た。
いつもだったら、せっかく心配してくれたアイルやキリに申し訳ない、と思うのだろうけれど、今の結衣には、それさえもノクスの顔を思い出すきっかけになってしまう。
心の片隅では申し訳ないと思いつつ、アイルやキリを置いて早足に歩いていく。
(……まだ、熱い)
ノクスに掴まれた手が、指先が。
もうとっくに離れているのに、触れられた感覚だけが残っているような気がする。
……そういえば、あの時も。
米屋でノクスと契約を更新した夜。
いつも通りに終わるはずだったのに、ノクスはなかなか手を離そうとしなかった。
絡み合った視線。
いつもとは少し違って聞こえた、自分の名前。
あの時も、恥ずかしかった。
何だか分からないまま、胸がざわざわした。
けれど。
(違う……)
今は、あの時とは違う。
ノクスが、ではない。
(……私が、違うんだ)
自分がノクスを好きだと、もう知っている。
だから、触れられるだけでこんなにも意識してしまう。
名前を呼ばれただけで、期待してしまう。
昨日だってそうだ。
「触れてもいいか」と聞かれて、抱きしめられた。
そして今日も。
(あんな風にされたら……期待、しちゃうよ)
もしかしたら、ノクスも。
そこまで考えたところで、結衣の足が止まった。
(……でも)
ふと、以前耳にした噂が頭をよぎる。
ノクスには――。
(好きな人とか……いたのかな)
期待して、違ったら。
そう思った途端、さっきまでとは違う意味で胸が苦しくなった。
「……どうしたらいいの」




