第71話 もう1度
翌日、いつものように朝の挨拶をして、いつものように朝食の席に着く。
昨日と違うのは、結衣とノクスだけだった席が豊たちによって賑やかになるくらい。
だからこそ、結衣は少しホッとした。
(結局、昨日のノクスは一体何だったんだろう…)
あれから気まずくて、本の内容なんてほとんど頭に入ってこなかったし、今朝も何となくノクスのことが見られないでいる。
けれど、豊たちがいることで、結衣の挙動不審な態度はいくらかマシになっていた。
(今だけはお兄ちゃんに感謝かな…)
そんな結衣の気持ちとは裏腹に、ノクスは暇さえあれば結衣を見ていた。
(抱きしめた時に嫌がるそぶりはなかった…むしろ…)
結衣から遠慮がちにも腕を回された時は心臓が止まるかと思った。
あの小さな手の感触が一夜経っても忘れられないでいる。
(もっと触れたい)
昨日は、触れてもいいかと尋ねた。
結衣は、駄目ではないと言った。
そして抱きしめても、拒まなかった。
むしろ、遠慮がちにではあるが、結衣の腕も自分の背へ回された。
(……ならば、また許可を取ればいいのだろうか)
そこまで考えて、ノクスは僅かに眉を寄せた。
一度許された程度で、もう次を望んでいる。
(私は、こんなにも欲深かったのか)
楽しげに豊と会話する結衣を見ながら、ノクスは淡い期待を抱いていた。
(もう一度…)
そろそろセヴランさんの仕事の手伝いを再開したいとノクスに頼んだのは、決してノクスと一緒にいると昨日の抱擁を思い出すからなだけでは、ない。
はず。
けれど、ノクスはしばらく考えた後に、しばらくは自分が抱えている書類の数字をチェックして欲しいと言い出した。
本当は、同じ部屋にいるより少し距離を置ける方がありがたかったのだけれど、断るわけにもいかない。
こうして、結局ノクスのすぐ近くの机で書類をチェックしているのだけれど…。
「…。」
「…。」
(何だか、さっきからずっと見られている気がする…)
視線は書類の数字を追っているから確実とは言えないけれど、視界の端に見えるノクスは先ほどからこちらを見ている気がして仕方がない。
(思い切って聞いた方がいいのかな…でも、勘違いだったらどうしよう…)
悩む結衣に終止符を打ったのは、ノクスが声をかけてきたからだ。
「結衣」
「ど、どうしたの?」
視線を上げた先のノクスの顔は、何か言いたげにも見える。
「その…」
「…?」
「早めの休憩をしないか?」
「えっ、もう!?」
まだ始めて1時間も経っていない。
ノクスは視線を彷徨わせて、最終的に机の角をジッと見ながら言う。
「その…少し集中出来なくて、だな」
「お茶でも入れてもらう?」
あんなに仕事中毒のノクスが集中出来ないなんて、余程のことかもしれない。
恥ずかしさよりも心配の気持ちが勝った結衣がノクスを見返す。
「ひょっとして体調が悪いの?それなら休まないと…」
思わず立ち上がってノクスの側まで歩いていく。
額に手を当ててみるけれど、そもそも魔族の体温が人間と同じかどうかなんて結衣には分からなかった。
「熱は、ないのかな…?どうしよう…クロードさん呼ぼうか?」
(どこにいるのか分からないけど、呼べば多分すぐ来るよね…?)
結衣が扉の方を見た時、パシリとその手を掴まれた。
「クロードは呼ぶな」
「でも…」
言い淀む結衣の手に、ノクスの息がかかる。
「呼ぶな……」
掴まれている手首が、妙に熱い。
ノクスの親指が、確かめるように一度だけ肌の上を動いた。
「……っ」
それだけのことなのに、触れられた場所から熱が広がっていくような気がする。
やがて手首を掴んでいた指が、ゆっくりと下へ滑った。
手のひらに触れ、指先までを包み込む。
(な、なに……?)
離すためではない。
むしろ、もっと触れていたいとでもいうような動きに、心臓が大きく跳ねる。
そのまま、ノクスが僅かに顔を上げた。
「……っ」
思っていたよりも、ずっと近い。
下から見上げる真紅の瞳は、妙に熱を帯びているように見えた。
指先には、まだノクスの指が絡むように触れている。
離れる気配はない。
(近い……)
視線を逸らしたいのに、逸らせない。
息をすることさえ忘れて、魔法にかけられたように身動きができなかった。
「……結衣」
甘く、囁くような低い声。
その瞬間だった。
ジジジ、ジジジジ!
けたたましい音を立てて、机の上の魔道具が激しく明滅する。
「……っ」
我に返ったように、ノクスの体がびくりと強張った。
結衣もまた、金縛りが解けたように大きく息を吸い込む。
「どうした」
魔道具に応答するノクス。その声には、先ほどの甘さは全くない。
「魔王様、報告。前回の報告から進展があった」
ノルティアの興奮した声が、通信越しに響き渡る。
「最初に実験した時の想定の倍以上のペースで増えている。これはもう瘴気濃度との相関が単純な比例じゃなくて、もしかすると閾値を超えた瞬間に爆発的な――あ、待って、ちょっとこの数値は異常。ちょっと待って。今すぐ記録しないと――」
早口はどんどん加速していく。
「あ、落ちる」
ガコン、と何かがぶつかるような音がした直後。
ブツン。
通信が、唐突に途切れた。
「……」
「……」
沈黙が部屋に落ちる。
「……壊したのか、あいつは」
呆れたようなノクスの呟きが、静寂に溶けていく。
ふ、と小さく息を吐き出すと、ノクスはいつもの調子を取り戻したように、乱れてもいない前髪をわずかに整えた。
「まったく、ノルティアには困ったものだな」
その声色は、まるで先ほどまでの熱を持った囁きなど最初からなかったかのように、平静を装っていた。
「すまなかったな、結衣。話の途中で――」
言いながら、労うように結衣の肩にそっと手を伸ばす。
「……っ!!」
指先が触れた、その瞬間。
「っ……ご、ごめんなさい!」
弾かれたように、結衣の体が跳ねた。
そのまま逃げるように扉へと向かう。
「ちょっと、外の空気吸ってくる……!」
バタン、と扉が閉まる音だけが、部屋に残された。
「……」
ノクスは、宙に浮いたままの自分の手を、じっと見つめた。
(……拒絶、された?)
昨日は、確かに許してくれた。
抱きしめても、結衣は逃げなかった。
だから今日も。
もう一度くらいならと、勝手に期待していた。
けれど、今の反応はどう見ても——。
ノクスは、ゆっくりと手を下ろした。
(……嫌だったのか)
昨日は断れなかっただけなのかもしれない。
自分に気を遣って、受け入れてくれただけだったのかもしれない。
そう考えれば、今朝から目すら合わせようとしなかったことにも説明がつく。
(私は……何を期待していたのだろうな)
誰もいなくなった部屋で、ノクスはひとり、小さく息を吐いた。




