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第70話 触れたい


その日の夕食は、久しぶりに賑やかだった。


「だから、その時ノクスがさ――!」

「いや、あれは違う」

「えー!絶対そうだったって!」


豊とアイルの声に、キリが呆れたようにため息をつく。


「豊、お前は少し話を盛りすぎだ」

「盛ってないって!」


そのやり取りに、エレンが思わず吹き出した。


「ふふっ」

「おっ、エレンが笑った!」

「豊、それ以上調子に乗らない」

「はい……」


結衣も思わず笑う。

ノクスはそんな騒がしい食卓を眺めながら、小さく息をついた。

どこか懐かしい。

まるで、皆で米屋に集まっていた頃のような時間だった。





部屋に戻って、いつものようにノクスとの雇用契約を更新していると、ノクスが結衣の顔を見ながら言った。


「豊は本当に相変わらずだ」

「でしょ?お兄ちゃん、どこでも生活出来る人だと思うもん」


結衣が笑うたびに、部屋の中まで温かくなるような気がした。


(……不思議だ)


今日一日、結衣の笑顔を見ているだけで、胸の奥のざわめきが静まっていく。


(私は、いつからこれほど――)


契約更新はあっという間に終わってしまう。

結衣の体温を名残惜しく感じながらも、そっとその手を離した。


「さて、と」


結衣がソファへ腰を下ろした。


「今日はどうする?」

「……どうする、とは?」

「最近、本読んだり、こっちの文字教えてもらったりしてたでしょ?」

「ああ」


そうだった。

だが今日は、どうにもその気になれなかった。

本を読む気にもならない。

文字を教える気にもならない。

ただ——。


ノクスは、隣に座る結衣を見る。

柔らかな髪。

笑ったばかりだからか、いつもより少し緩んだ頬。

膝の上に置かれた、小さな手。


(……触れたい)


不意に浮かんだ欲求に、ノクスは眉を寄せた。

何に、と考える。

手か。

髪か。

頬か。

それとも——。


(……いや)


自分でもよく分からない。

ただ、無性に結衣へ触れたかった。

触れて、そこにいることを確かめたい。


「ノクス?」

「……何だ」

「いや、ずっとこっち見てるから」

「…………」


言えるはずがない。

触れたいから見ていた、などと。

ノクスは静かに視線を逸らした。


「……今日は、少し疲れた」

「そっか」


結衣は特に疑う様子もなく頷く。


「じゃあ、のんびりしよっか」


そう言って、いつもより少しだけノクスの近くへ座り直した。

肩が、わずかに触れる。


「……」


ノクスの体が固まった。


「ノクス?」

「問題ない」

「まだ何も聞いてないけど」

「…………」


結衣が不思議そうに首を傾げる。

ノクスは、その横でひどく真剣に考えていた。


(……近い)


だが。


(悪くない)




むしろ——。


もう少し。



そう思った自分に気づいて、ノクスは再び黙り込んだ。

結衣が家族を大切に想っていることは知っている。

豊はもちろん、アイルやキリ、そしてエレンのことも大切にしている。

最近では、ノエルもレティシアも、ベルンでさえ。


結衣にとっての『大切なもの』は、少しずつ増えているのかもしれない。

それは喜ばしいことのはずだった。

結衣が笑っているのなら、それでいい。

そう思っていた。


『ノクスのこと……すき、だから……多分、だけど』


目を泳がせながら、そう言った結衣の顔を今でもはっきりと覚えている。

ガルドの言っていた、好きな相手。

結衣といると満たされる。

ずっとこの時間が続けばいいと思う。

それが『好き』なのだとしたら。


(では、これは何だ)


今日、結衣が豊に頭を撫でられた時。

アイルとキリに抱きしめられた時。

そして、エレンが結衣に触れた時。


胸の奥に、ひどく不快な何かが沈んだ。

結衣が大切にしている者たちだ。

彼らが結衣を大切にしていることも知っている。

ならば、何も問題はない。


ない、はずなのに。


(……触れてほしくない)


不意に浮かんだ自分の考えに、ノクスは眉を寄せた。

こんな感情まで——。


(『好き』の内に入るというのか?)


眉間にシワを寄せて黙り込んでしまったノクスに、結衣は首を傾げる。


(また何か考え事かな…?)


少し疲れたと言っていたし、ノクスにも何か悩みがあるのかもしれない。


「…結衣」

「…?」

「その…」

「どうしたの?」


視線を彷徨わせながら、何か言いづらそうに口を開いては閉じるノクス。


「触れても…いいか?」

「!?」


今、ちょっと結衣の頭の中はパニックだ。


「駄目だろうか…」


少し落ち込んで見えるのは気のせいだろうか。


「駄目じゃ、ない…けど」


言った側から顔が赤くなっていくのが自分でも分かる。


(触れるって…どこに!?)


そして、ゆっくりと躊躇いがちに伸ばされたノクスの手は、結衣の頭の上に置かれた。

そのまま、いつものように撫でられる。


(…これではない、な)


結衣の頭を撫でるのは好きだが、今はもっと触れたいと思う。

どこか真剣な表情のノクスに、結衣の頭の中は疑問符でいっぱいだ。


(どうしたんだろう…そんなに悩みながら人の頭って撫でるものなの…?)


けれど、次の瞬間。


「…っ」



伸ばしたノクスの手が、結衣の背中に回される。


そのまま引き寄せられるように体が熱に包み込まれた。

ほんのりと香る甘い香り。

頬に当たるのは、ノクスの胸板。


ノクスに抱きしめられている。


そう自覚した途端、結衣の先ほどまでの冷静さは木っ端微塵に砕け散った。


(ど、どういうこと!?どうなってるの!?)

(…これは落ち着くな)


先ほどまで胸の奥に沈んでいた、どろりとした感情が薄れていく。

腕の中に結衣がいる。

触れているのは、自分だけだ。

その事実に、ひどく安堵している自分がいた。


(……そういうことか)


今日、豊が結衣の頭を撫でた時。

アイルやキリが抱きしめた時。

エレンが結衣に触れた時。

自分も同じことをしたかったのだ。


いや。


(……違うな)


同じことがしたかったのではない。

私も、結衣に触れたかった。


「……ノクス?」


腕の中から、戸惑った声が聞こえる。


「苦しいか?」

「く、苦しくはないけど……」


結衣はどうしていいか分からず、宙に浮かせていた両手をおずおずとノクスの背中へ回した。

そっと触れる。

その瞬間、ノクスの腕がぴくりと止まった。


(……返された)


今度はノクスが固まった。

結衣も顔を上げられない。



(これ……いつまでこうしてればいいの!?)

(……いつ離せばいい)



二人とも答えが出ないまま、しばらく抱き合っていた。

やがて結衣が恥ずかしそうに身じろぎしたことで、ノクスはようやく腕を解いた。


「……すまない」

「う、ううん……」


微妙な沈黙が落ちる。


「……。」

「……。」

「本、読む?」

「……そうだな」


二人とも、まったく内容が頭に入らなかった。



さあ、ポンコツ魔王のお出ましです笑

次のお話でも、やらかします。


ちなみに、現代編でも無自覚にやらかしている回との対比になっています。

現代編、3章38話です。

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