第68話 豊side⑥
ルーカスの傷は癒すことが出来た。
けれど、エレンは——。
「申し訳ございません。私ではどうすることも出来ません」
エルネストは悔しそうに首を振った。
「瘴気でも、毒でもないのです。薬そのものが勇者様の体に作用しています。自然に抜けるのを待つしか……」
「そんな……」
豊は眠るエレンを見た。
額には汗が滲み、苦しそうに眉を寄せている。
朝になっても、その表情は少しも変わらなかった。
豊に出来ることと言えば、濡らした布で汗を拭き取り、水を飲ませようと口元へ運ぶことくらい。
それでも、ほとんど喉を通らない。
カシウスは、記憶を消すと言っていた。
その薬のせいなのか。
時折エレンは薄く目を開ける。
けれど、その瞳は焦点が合っていない。
まるで豊の姿が見えていないように、虚ろに天井を見つめている。
「……エレン」
呼びかけても、返事はない。
目に見えて落ち込んでいる豊に、ルーカスが気遣うように声をかけた。
「聖人様、私が見ていますので、少し休まれては?」
「いや。何ていいうか、全然眠くなくてさ」
眠くなくても、疲れてはいるのだろう。
豊の顔にはいつもの覇気がない。
「聖人様。聖人様のお力は使えないのでしょうか?」
ルーカスが口にしたのは、精米のことだろう。
けれど、豊の目に見えるエレンのどこにも玄米に見える部分はない。
しばらく考えてみたけれど、そもそも玄米に見える原因だって分かっていないのだ。
「…試しにやってみるか」
考えるより、とりあえずやってみる。
小難しく考えるのは性に合わない。
「”精米”」
豊が口にすると、豊の聖印から淡い光が漏れた気がした。
「…。」
けれど、エレンには何も変化がない。
「やっぱりダメか…」
項垂れる豊のそばで、ルーカスもまた見ていられないとばかりに視線を外した。
暗い。
深い。
どこまでも沈んでいく。
まるで水底へと引きずり込まれるように、意識がゆっくりと沈んでいく。
苦しくない。
悲しくもない。
何も感じない。
(……楽だ)
もう戦わなくていい。
勇者でいる必要もない。
誰かの期待に応えなくてもいい。
何も考えなくていい。
このまま身を委ねてしまえば——。
そう思った、その時だった。
どこか遠くで、小さな波紋が広がる。
静かな水面に、一滴の雫が落ちたような。
ぼんやりと霞んでいた思考が、少しずつ澄み始める。
(……なんだ)
胸の奥に絡みついていた靄が、ゆっくりと剥がれていく。
重かった頭が、少しだけ軽くなる。
(誰か……いる)
温かい。
優しい。
この感覚を知っている。
手を握られている。
(……?)
その名前を思い浮かべた瞬間。
深い水底から、一気に浮かび上がるような感覚が全身を駆け抜けた。
ぴくり、とエレンの指が動いた。
「エレン!?」
「…ゆた…か?」
「エルネスト様を呼んできます!」
慌てて部屋を飛び出したルーカスを横目に、豊はエレンの手を握った。
「覚えてるか?俺が分かるか?自分の名前も分かるか!?」
「ちょ…声が大きいって…。なんだよ、急に…」
「ずっと目が覚めなかったから…」
「ここは…?」
「町外れの小さい教会。エルネスト大司祭を頼ってきたんだ」
体を起こそうと力を入れるけれど、上手く出来なくて転げ落ちそうになる。
途端に豊の腕がエレンを支えて、ベッドの上に戻した。
「まだ寝てろって。変な薬みたいなの飲まされたんだろ?」
豊の言葉に、エレンの脳内に浮かび上がるのは薄ら笑いをするカシウスの顔。
冷たい手が伸びてきて、そのまま何かの液体を流し込まれて…。
思わず手がびくりと震えると、安心させるように温かな手に包み込まれた。
「大丈夫。今度あいつが来たら、全力でぶっ飛ばすから」
「別に……頼んでないし……」
そう返したものの。
カシウスの名を聞いただけで、指先が小さく震えた。
薄い廃紫の髪。
柔らかな笑み。
耳元で囁く穏やかな声。
『勇者様は、もう戦わなくてよいのです』
『貴女のそばにいるのは私だけで良いのです』
思い出した瞬間、喉の奥が締め付けられる。
息が浅くなる。
あの部屋へ、もう一度連れて行かれる。
そう考えただけで、体が動かなくなるような恐怖が胸を支配した。
エレンの顔が硬くなったことに気づいた豊が、何も言わずにその手を包み込む。
(……温かい)
その温もりに、強張っていた体から少しだけ力が抜けていく。
いつもならすぐに振り払っていたはずなのに。
(……何を考えてるんだ、僕は)
振り払おうとした指先は、それでも動かなかった。
やがて慌てたようにエルネストが部屋にやってくるまで、エレンは自分らしくない考えに目を瞑った。
「体内の薬は残っています…意識は戻ったようですが…」
エルネストの表情は曇ったままだ。
「やっぱり待つしかないのか」
「お力になれず、申し訳ございません」
頭を下げるエルネストは、悔しそうに口元を歪めた。
「それはもういい。それよりも、外はどうなってる?」
エレンは自分のことよりも気になっていることがあった。
聖人と勇者、その二人が教会から消えたことで、教会や国がどう動くのかの方が不安だ。
「教会では、表立っては騒ぎにはなっていません」
しかし、とエルネストは続ける。
「聖騎士たちが頻繁に街中で見かけられます。恐らく、箝口令が出ているかと」
「外に出れば見つかるのは時間の問題か…」
逃げようにも、国境では厳重に警備されているだろうし、小さな村を点々としても逃げ切れるとは到底思えない。
(問題を解決するのは簡単だ)
エルネストやルーカスは巻き込まれただけだし、豊に至っては王族が欲しがっているのだから、これ以上危害を加えることはないだろう。
簡単な話、エレンが昔から生きてきた人生を繰り返すだけで、全て丸く収まる。
「豊、お前は王城に戻れ。ルーカスも一緒に連れていけば、教会も手出しは出来ない」
「…エレン?」
困惑したような顔の豊に、いつも通りの、いつもの勇者という仮面を被る。
「エルネスト大司祭は、何も関わっていない」
「おい、何言って…」
「僕が一人で教会に乗り込む。それで終わりだ」
「終わりって…」
昔からの癖。
笑顔を作るのは簡単だ。
ちょっと笑って大袈裟に演じるだけだ。
そうすれば、いつものように上手くいく。
心の奥底で暴れる感情なんて、表に出したって良いことはないのだから。
「いやー、一回あいつの顔殴ってみたかったんだよね」
あの自分はいかにも聖人君子です、みたいな顔が崩れるのは面白そうじゃない?そうやって笑うエレンに、ルーカスが戸惑ったように声をかける。
「しかし、聖騎士の護衛がついています!今の勇者様の体では…」
「平気平気、ちょっと休めばすぐ動けるって」
嘘だ。
今だって体に力がほとんど入らない。
立って歩けるのかも怪しい。
でも、そんなことは関係ない。
全部解決するには、これが一番手っ取り早い。
ヘラヘラと笑うエレンの奥底で、もう一人の自分が叫んでいる。
でも、それを出してはいけないのだ。
奥底の箱の中に仕舞って、鍵をかけて、2度と出てこないように蓋をする。
「ダメだ」
パキリと、仕舞ったはずの蓋が割れる音がした気がした。
「何、言って…」
上手く笑おうとして、エレンの表情は豊を見た後に固まってしまった。
「絶対にそれだけはダメだ」
珍しく、豊が感情を顕にしている。
普段は何も考えていないようにヘラヘラと笑っているのに、今は眉を釣り上げて怒っていた。
「じゃあ、何か他に案でもあるの?」
「今は思いつかない。だけど、エレンが教会に行くのは俺は絶対に反対だ」
「お前…!!」
その言葉に、思わずカッとなったのはエレンの方だ。
力の入らない手を無理やり動かして、豊の胸ぐらを掴む。
「他に案もないのによくそんなことが言えるな!?だからお前が嫌いなんだ!!」
エレンの剣幕にルーカスが止めに入ろうと動くのを、エルネストがそっと制した。
「無責任に大丈夫だとか言うし、今度は勝手に教会に来たと思ったら計画もなしに連れ出して…!」
目の奥が熱い。
ダメだと思うのに、口からは言葉がどんどん飛び出す。
「最後まで出来ないなら、最初から手なんか出すんじゃない!!」
「それならいっそ…」
「助けになんて来なければ良かったんだ!」
期待を持たせて、助けるなんて簡単に言うな。
裏切られるのは、もううんざりなんだ!
豊の面影が、昔の幼馴染と被る。
息が荒く、呼吸が早くなる。
怒りに震えるエレンの手を豊は掴んだ。
胸ぐらを掴んでいた手は、簡単に外れてしまう。
「…こんなに力が出ないのに、一人で行くのか?」
「ハッ!僕は勇者だ。死にそうになったことだって何度だってある!」
(魔物は怖い。けれど、他に選択する余地はない。だって勇者だから)
「今度あいつに捕まったらどうする」
「刺し違えたって一矢報いるさ!」
(死にたくはない。けれど、捕まるくらいならその方がマシだ)
「”本当”は?」
「はぁ!?」
「”本当”は、エレンはどうしたいんだ」
「意味が分からない!これは僕の本心だけど!?」
(本当は…そんなこと考えたって意味がない)
豊が掴んだ手の聖印が光り出す。
「俺は、エレンの本心が知りたい」
「”本当は、どうしたい?”」
優しい光が、部屋中を包み込んだ。
暖かくて、泣きそうになるくらい、綺麗で、心地が良くて。
「本当は、助けてって言いたいんだろう?」
エレンの奥底に仕舞い込んでいた感情の箱が、音を立てて崩れた気がした。
ずっと、閉じていた。
誰にも頼らないと決めていた。頼っても、どうせ裏切られると知っていたから。
なのに。
「……っ」
いつの間にか、頬が濡れていた。
拭おうとしても、止まらない。
「助けられないのに……」
声が、震えた。
「助ける、なんて……言うなよ」
「ごめん」
豊が、頭を掻いた。
「俺、考えるより先に動くタイプだからさ」
「……馬鹿だろ」
「よく言われる」
エレンは、腕で目を覆った。
泣いているところを見せたくなかった。
豊は何も言わない。
ただ、そこにいる。
それだけで、また涙が溢れた。




