第5話 黒い帳簿
たどり着いた街は、結衣の目から見ると異国情緒溢れる活気ある場所だった。
石畳の道。色とりどりの布が軒先に吊るされた市場。食べ物の匂いと、香料の匂いと、馬の匂いが混ざり合っている。
「すごい……」
思わず、立ち止まりそうになる。
「結衣ちゃん、あまりキョロキョロしない方がいい」
アイルが、小声で言う。
「目立つから」
「あ、ごめん」
羽織ったマントの縁を、少し深く引き下げる。盗賊の荷物の中にあったものを拝借した。大きめで、顔がすっぽり隠れる。
「このマント、ちゃんと効果あるの?」
「ある。施した術式で、見た人の記憶に残りにくくなってる」
アイルが答える。
「完璧じゃないけど、ないよりずっといい」
「ここは、レヴァンという街だ」
キリが、周囲を見渡しながら言う。
「魔族領との境目に、二番目に近い」
「二番目?」
「一番近い街は、今は近づかない方がいい。色々と物騒だ」
「……そっか」
「交易が盛んな分、人の出入りが多い」
キリが続ける。
「普通の商人から、怪しげな連中まで混在している。目立った行動は避けろ」
「分かった」
盗賊から借りた馬についていたカバンには、それなりの額の金が入っていた。治安の良さそうな通りを選んで歩き、こぢんまりとした宿屋に入る。
「部屋、一つでいいですか」
「……一つ?」
受付の男が、三人を見回す。
「予算の都合で」
キリが、淡々と言った。
「まぁ、三人部屋ならありますが」
「それで」
鍵を受け取って、階段を上がる。
その途中。キリの表情が、微妙に歪んでいた。
「キリ、どうかした?」
「……なんでもない」
「顔が苦しそうだけど」
「なんでもないと言っている」
アイルが、こっそりと結衣に耳打ちする。
「三人同じ部屋ってのが、色々とキツいみたい」
「アイル」
「はーい」
部屋は、狭かった。
ベッドと、小さなソファ。窓からは、石畳の通りが見える。
「ひとまず休憩だ」
キリが言う。
「その間に、荷物を確認する」
「うん」
結衣はベッドの端に腰を下ろした。足が、じんわりと重い。スリッパで森を歩き、馬に乗り、石畳を歩いてきた。思った以上に、体が疲れていた。
アイルとキリが、盗賊の鞄を広げていく。食料。ロープ。硬貨の入った袋。使い込まれた地図。
それを眺めていると。
不意に、見慣れたものが目に入った。
「……帳簿?」
黒い表紙。厚みのある冊子。
「よく結衣ちゃんが色々書いてたやつだよね」
アイルが、手に取って眺める。
「……これは?」
キリが、表紙の端に目を止めた。小さく刻印された、金色の印。
「これって、聖印じゃない?」
アイルの声に、結衣は首を傾げる。
「聖印……?」
「人間が信仰している女神様の印だよ」
アイルが説明する。
「勇者って呼ばれる人たちは、体にこの印があるらしいけど」
(エレンにも、あったのかな)
「盗賊だけど、信仰心があるってこと?」
「単に、金目のものを漁っていて中に紛れ込んだだけだろう」
キリが、パラパラとページをめくる。中には、何も書かれていない。真っ白なページが続くだけだ。
「……何もないな」
黒い表紙を閉じて、端の方に置く。
ただの空白の帳簿。それだけのことのはずだった。
けれど。
なんとなく、それが気になった。
結衣は、手を伸ばした。
触れた瞬間に、懐かしい感触が手のひらに広がる。
この感触、知っている。
ノクスと一緒に書き直した、あの夜。小さな体で、スイスイと数字を書いていく様が頭に浮かぶ。あんなに小さいのに、字は妙に整っていて。何百年も生きてきた魔王が、米屋の帳簿を真剣に見ている光景が、おかしくて、でも頼もしかった。
(ノクス……)
今、どこにいるんだろう。
無事でいるだろうか。
頭にノクスの顔がよぎった、その瞬間。
パタン。
音を立てて、表紙が開いた。
「……え?」
誰も、触っていない。
真っ白だったページに、じわじわと文字が浮かび上がってくる。
「……!」
「結衣ちゃん?」
アイルが、身を乗り出す。
キリも、素早く立ち上がって覗き込む。
浮かび上がる文字は、ゆっくりと、でも確実に、形を成していった。
浮かび上がってきた文字を、結衣は声に出して読んだ。
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【所有者】稲宮結衣
【事業区分】稲宮米店
【役職】経営者
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【流動資産】 ・体力残高:低 ・魔力残高:測定不能 ・集中力:低下
【固定資産】 ・契約印 ・黒帳簿
【負債】 ・疲労 ・精神的動揺
【純資産】算定中
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「……経営者?」
思わず、間の抜けた声が出た。
「っていうか、これ一体何なの?」
「読み続けろ」
キリが、真剣な顔で覗き込む。
「魔力残高、測定不能って……」
アイルが眉を寄せる。
「固定資産に、この帳簿自体が登録されてる」
キリが、静かに言った。
「負債に疲労と精神的動揺……まぁ、確かに」
アイルが苦笑する。
「当たってるね」
「純資産、算定中……」
結衣は、しばらく画面を見つめた。
「これって……私のステータス、みたいな?」
「そうとも言えるが」
キリが、腕を組む。
「何がこれを動かしているのかが分からない」
「私にも、全然分からない」
アイルが、帳簿をじっと見る。
「でも、結衣ちゃんに反応して開いたんだよね」
「……そう、だね」
触った瞬間に開いて、文字が浮かんだ。それは確かだった。
(なんで私の名前が……)
まだ、意味が分からない。でも。
次のページが、気になった。
そっと、めくる。
また、文字が浮かび上がってくる。
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【従業員一覧】
■ノクス 役職:統括責任者
状態:危険 ※生命維持限界域
・稼働率:危険域 ・魔力残高:枯渇寸前 ・現在地:測定範囲外 ・契約接続:不安定
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「……」
手が、止まった。
「状態、きけん…」
声が、震えた。
「生命維持限界域……」
ページを持つ手が、冷たくなっていく。
「魔力残高、枯渇寸前……現在地、測定範囲外……」
最後まで読んで。結衣は、しばらく動けなかった。
(状態、危険)
(生命維持限界域)
頭の中で、言葉だけがぐるぐると回る。
「ノクスが……危ない状態ってこと……?」
アイルが、口を開こうとした。キリが、先に動いた。
結衣の手から、そっと帳簿を受け取る。もう一度、ページを見る。その目が、真剣だった。
「契約接続、不安定ってことは」
静かに言う。
「完全に切れてるわけじゃない」
「……つまり?」
「生きてる」
はっきりと、言い切った。
「今この瞬間も、魔王は生きてる。この帳簿がそう言ってる」
「でも、危険って——」
「限界域ってことは、まだ限界じゃないってことだ」
キリが、続けた。その声は、いつもより少しだけ強かった。
「ギリギリのところで、踏みとどまっている」
「……」
結衣は、もう一度帳簿を見た。
「これが何なのか、まだ分からない」
「うん」
「でも……魔王のことが、ここに出てる」
帳簿を、胸に抱える。
「現在地、測定範囲外……」
「遠いな」
キリが、静かに言う。
「だが、見つけられないわけじゃない」
「……行こう」
小さく、でも結衣ははっきりと言った。
「ノクスを、見つけに」
アイルが、微笑んだ。キリは、無言で頷いた。
この帳簿が何なのか、なぜ自分に反応したのか——まだ何も分からない。
でも。ノクスが、まだ繋がっている。
新シリーズ1日目はここまでとなります。
明日も21時頃に更新していきますので、よろしくお願いします!




