第4話 初めての危機
最初に困ったのは、足元だった。
「……歩きにくい」
スリッパだ。室内にいたから当然だけど、よりによって森の中をスリッパで歩くことになるとは思っていなかった。
「ちょっと待って」
アイルが、しゃがみ込んだ。結衣のスリッパに、さらっと手を触れる。
ほんのりと、光が走った。
「これでどう?」
「……え」
踏み込んでみる。さっきまでのふにゃふにゃとした感触が消えて、まるで登山靴みたいな頑丈さになっている。でも、形はどう見てもスリッパだ。
「見た目はそのままなんだね」
「術式で強化しただけだから」
アイルが肩をすくめる。
「形まで変えるのは、ちょっと大変で」
「……十分すごいけどね」
キリが、淡々と言った。
「歩けるなら問題ない」
「うん。ありがとう」
それでもやっぱり、スリッパはスリッパで。木の根を踏むたびに、微妙なズレが生じる。結衣は少しだけよたよたしながら、二人の後を歩いた。
森の中は、静かだった。
静か、というより——密度が高い。音の一つ一つが、はっきりしている。葉の擦れる音。遠くの水の音。何かが枝の上を走り抜ける音。
「あ」
思わず立ち止まる。
木の幹に、見たことのない花が咲いていた。白いのに、光が当たると青く輝く。
「綺麗……」
「それはね、夜になるともっと光るんだよ」
アイルが、隣に並ぶ。
「暗い森の中で、道標みたいに咲くから——灯り草って呼ばれてる」
「灯り草……」
「昔から、迷子の旅人を助けてきたらしい」
「なんか、良い話だね」
「でしょ?」
アイルが笑う。その笑い方が、いつも通りで——結衣の肩から、少しだけ力が抜けた。
少し歩くと、今度は見たことのない鳥が枝に止まっていた。羽が七色に輝いていて、尾羽が異様に長い。こちらを見ているのか、丸い目がじっと動かない。
「あの鳥は?」
「七彩雀だ」
キリが答える。
「警戒心が強い。普通は人前に出てこない」
「珍しいの?」
「かなり」
「……お前に興味を持ったのかもしれない」
「私に?」
「さあ」
そっけなく言いながら、キリはまた歩き出す。でも、その横顔が——ほんの少しだけ、柔らかかった。
歩きながら、話は続いた。
エルフの森のこと。アイルが昔、木に登って落ちた話。キリが初めて外の世界に出た時に、あまりの人の多さに固まった話。
「固まったの?」
「……黙れ」
「だって、じっと見てたじゃん。十分くらい」
「観察は重要だ」
「顔が引きつってたよ?」
「していない」
結衣は、思わず笑ってしまった。
(少し、落ち着いてきた)
ノクスのことが心配なのは変わらない。お兄ちゃんのことも、エレンのことも。でも——二人がいる。それだけで、足が前に進む。
そのとき。
アイルとキリが、同時に歩みを止めた。
二人の目が、合う。声もなく、何かを確認するように。
「結衣ちゃん」
アイルが、振り返る。その声は穏やかだったけれど——さっきまでと、少しだけ違う。
「もし怖かったら、目を瞑ってていいからね」
「……え?」
「あぁ」
キリが、結衣の前にそっと出る。
「座って休憩でもしてるといい」
「どういう——」
次の瞬間。
ガサガサ、と。茂みが揺れた。
「やぁやぁ、可愛いお嬢さんを連れてるねぇ」
木々の間から、男たちが現れる。数は——五人。いや、六人。にやにやと笑いながら、じりじりと距離を詰めてくる。手には、ナイフや剣を持っていて、明らかにこちらを襲うつもりだ。
「こんなところで、どこへ行くんだい?」
「良ければ、俺たちが案内してやろうか」
下卑た笑い声が、森に響く。
結衣は、息を飲んだ。
―――盗賊だ。
その前で。
アイルとキリは——動じていなかった。
アイルは、にこにこしたままだ。でも、その目が笑っていない。
キリは、腕を組んで、ただ静かに男たちを見ている。
「結衣」
キリが、低く言った。
「後ろにいろ」
次の瞬間、アイルとキリの周りに、光る文字の輪が浮かび上がる。
アイルの魔術が、瞬く間に盗賊たちのうちの一人を吹き飛ばした。
「くそっ!魔術師か!」
「遅い」
キリの魔術が、今度は違う盗賊に勢いよく放たれる。
水の膜が男の顔に纏わりつき、男は苦しそうにもがいていた。
右手を上げたままのキリは、今度は違う盗賊に向かって左手を向ける。
魔術がすぐさま飛んでいき、男の足をすくって転ばせる。
そこへアイルが走り込んで、左手に纏った魔術を至近距離から男に放つ。
「グハッ」
勢いよく飛んでいった男は大きな木にぶつかり、やがて動かなくなった。
ものの5分もしなかっただろうか。
それぐらい鮮やかに、アイルとキリは盗賊達をやっつけてしまった。
「す、すごい…」
あまりの早さに、結衣はただただ見ていることしかできなかった。
手際良く、盗賊達を縛っていくアイルとキリ。近くの木に巻きついていた蔦をぐるぐると巻いていく。
最後の仕上げとばかりにアイルが手をかざすと、蔦は大きく太くなってガッチリと盗賊達を締め上げた。
「キリ、僕はちょっと向こうの方見てくるから、結衣ちゃんの側にいてあげて」
「分かった」
アイルはそう言って、茂みの奥の方へと消えていく。
「アイルは何しに…?」
「近くに、移動手段の馬がいるはずだ。それを確認しに行っている」
キリはそう言うと、チラリと結衣の方を見る。
「ずっと歩きっぱなしだったから、疲れただろう?…座って休んでおけ」
「う、うん」
実際にはさほど疲れていなかったが、初めて命の危機というものに遭遇したからなのか。
膝の震えが今になってやってくる。
思わず立っていられなくなって、その場にぺたんとしゃがみ込んだ。
しばらく無言だったキリが口を開く。
「お前の世界は安全な場所だったんだ。怖いと思って当然だ」
「ご、ごめんね…ちょっと休めば、大丈夫だと思うから…」
(大丈夫、アイルとキリもいてくれるし、ここで歩けなくなったら迷惑かけちゃう)
それでも、心臓の音は少しも落ち着いてくれない。
(頑張らなきゃ…大丈夫……大丈夫だから)
まだ顔の強張っている結衣を見て、キリは小さくため息をついて、結衣の目の前にしゃがみ込んだ。
「前にも言ったはずだ。お前の大丈夫は当てにならない」
「そ、それは…でも…」
そっとキリの手が、結衣の握りしめている両手の上に添えられた。
「怖いと言っていい。それは我儘じゃない」
結衣は、少しの間黙っていた。
キリの手が、自分の手の上にある。大きくて、少しだけ冷たい。
「……うん」
小さく、頷く。
「怖かった」
声が、思ったより素直に出た。
「ナイフとか、剣とか……初めて、本物を見て」
「そうか」
「二人が前に出てくれなかったら、どうなってたか」
「……心配するな」
キリが、静かに言う。
「俺たちが、お前に指一本触れさせない」
断言だった。迷いが、一切ない。
結衣は、キリの顔を見た。
いつもの無表情。でも、目が真剣だった。
「……ありがとう」
「礼はいい」
「でも、言いたい」
「キリが前に出てくれたから、私、動けた」
「……」
キリは、視線をわずかに逸らした。
「当然のことをしただけだ」
「当然でも、嬉しかった」
キリの指先が、かすかに動いた。
それだけだった。
でも結衣には、その一瞬が見えた。
(……キリも、緊張してたのかな)
そんなことを思っていると。
「結衣ちゃーん!」
明るい声が、森に響いた。
アイルが、木々の間から戻ってくる。その後ろには馬が二頭。
「良かった。何頭だ」
「二頭」
アイルが、結衣の方を振り向く。
「結衣ちゃん、馬は…」
言いかけて、止まった。
結衣の顔を見て、苦笑いする。
「……そうだよね。向こうじゃ自動車だもんね」
「ご、ごめん。馬って、乗ったことなくて」
「全然いいよ」
アイルが、あっさりと言う。
「じゃあ、キリと一緒に乗るといいよ」
「……え?」
「⁉︎」
結衣とキリの声が、同時に上がった。
「ほら、キリ、先に乗って。僕が結衣ちゃん持ち上げるから」
「……」
キリが、難しい表情をした。しばらく黙っていた。
「……仕方ない」
渋々、という顔で馬に乗り込む。
「よし」
アイルが結衣の方を向いて、しゃがみ込む。
「足、ここにかけて」
「う、うん」
おそるおそる足をかけると、アイルが背中をぐっと押し上げた。
「わっ——」
勢いで、キリの後ろに乗り上がる。
「結衣ちゃん、しっかりキリに掴まっててね」
「う、うん——」
「こう、ぎゅーっと」
「アイル⁉︎」
悲鳴にも似たキリの声が、森に響いた。
「だって、しっかり掴まらないと落ちちゃうよ?」
「……っ」
結衣は、おそるおそるキリの背中に手を回した。どうしても、掴まらないといけない。落ちたら困る。
(で、でも)
顔が、熱い。
「ご、ごめんキリ。でも落ちたら困るから……」
「……分かっている」
キリの声が、妙に低かった。
「……ぐっ」
「キリ、大丈夫?」
結衣が、不安そうに声をかける。
アイルは、にこにこしたまま言った。
「大丈夫、照れてるだけだから」
「照れてない」
即答だった。でも——キリの耳が、はっきりと赤くなっていた。
「……行くぞ」
キリが、強引に話を変える。
「グズグズしている場合じゃない」
「そうだね」
アイルが自分の馬に乗りながら、楽しそうに続ける。
「で、どこ行くの?」
「盗賊がいたということは」
キリが、前を向いたまま答える。声が、いつもより少しだけ固い。
「ここは主要な街道の可能性が高い」
「なら、近くに町があるってこと?」
「そうだ。それを探す」
「なるほど」
アイルが頷く。
「じゃあ、街道沿いに進めばいいね」
「ああ」
馬が、ゆっくりと歩き出した。
結衣は、キリの背中に掴まったまま、そっと前を見る。木々の間から、光が差し込んでいる。
「……キリ」
「なんだ」
「ありがとう。一緒に乗せてくれて」
「……」
キリは、答えなかった。
ただ、耳の赤さが、なかなか引かなかった。
その様子を後ろから見ていたアイルは、一人で静かに笑っていた。




