第66話 豊side④
扉の開く音がした。
けれど、エレンは扉を見る力もない。
ただ、ぼんやりと見上げる天井を見つめるだけ。
今が昼なのか、夜なのか、その判断もつかない。
だから気づかなかった。
いつもと違う足音、ベッドに横たわるエレンを見て息を呑んだ声。
そして、少しだけ遠慮気味に触れられて、そっと上半身を起こされた時。
初めて視界に入った、こちらを心配そうに覗き込む顔。
「エレン」
「…?」
どうしてここに…そう言ったつもりだけれど、口から出るのは微かな息だけだった。
「帰ろう」
苦しそうに歪んだ顔。
(どうしてお前がそんな顔するんだよ…豊)
いつもはヘラヘラと意味もなく笑ってるくせに。
いつもだったらすぐ飛び出す軽口も、今は何も喋ることが出来ない。
「聖人様、急がないと見つかってしまいます…!」
「分かってる!」
豊はゆっくりとエレンを抱き上げようとした時だった。
「困りますね…勇者様をどちらにお連れになるつもりですか?」
冷え切った声。
動かないはずのエレンの手が、一瞬だけぴくりと動く。
豊は目の前の男…カシウスを睨みつけた。
「なぁ、頼むよ!どうしても教会に行きたいんだ」
「ですが…」
新しく豊の警護のついた新人の聖騎士、ルーカスは困ったように眉を寄せた。
聖人様の警護につけ、そう言われたのはつい昨日のこと。
巷で噂の聖人様の警護につけるなんて、と震える胸を宥めて、いざ聖人様とご対面したのだが。
聖人様は良くも悪くも庶民的な方で、緊張気味のルーカスはニコニコと笑う豊に張り詰めていた肩の力が抜けてしまった。
その豊は、どうしても教会に行きたいと言い出したのは、ついさっきのことだ。
「教会側にも受け入れの準備が入りますので、何日かお時間を頂くことになると思いますよ」
「理由はなんでもいいんだ。な、この通り!」
ルーカスだって馬鹿ではない。
王家と教会で聖人や勇者の取り合いになっていることくらいは知っている。
下手に動けば、ルーカスだけの問題ではなくなってしまうのだ。
「…できる限り、尽力させていただきます」
渋々了承すれば、豊は眩しいほどの笑顔になった。
聖人様が教会で救いを求める人の声を聞きたい——そんな理由をつけて教会に向かう手筈を整えるのに、五日ほど時間がかかった。
やっと行けるとなった日、どこから聞きつけてきたのか、教会には聖人様を一目見ようと多くの民衆が押しかけていた。
「なんだかすごいことになったな……」
「もちろんです。数百年ぶりの聖人様ですから」
それらしい馬車でやって来た豊は、窓の外に広がる光景を他人事のように眺めていた。
教会の中に入ると、深々と頭を下げるのはカシウスだった。
笑顔で豊の来訪を喜ぶその姿には、微塵も偽りなどない、というような清廉さがある。
昼間は教会内部を見た後で、救いを求める民の声を聞くべく聖堂の中へと入った。
そこにいたのは、体の状態が重篤で、もはや最後の時を待つ人たちが神への祈りを捧げているところだった。
(やべ……玄米にしか見えない)
話を聞く限り、とても笑える話ではないのに、どの人間の頭も玄米に見える。
豊は困惑した。
「皆、瘴気に体を侵されているのです」
カシウスが、静かに続けた。
「長年、瘴気に晒され続けた体は、もはや回復する術がございません」
「……そうか」
豊は、並ぶ人々を見渡した。
玄米、玄米、玄米。
(全員、玄米だ……)
「聖人様…生きて会える日が来るとは…」
「なんて有難い…」
豊に気付いた人たちが、豊を取り囲むように周りに集まり出した。
慌ててルーカスが止めようとするが、豊はそれよりも先に近づいてきた一人の手をそっと握った。
頭は玄米に見えても、体の部分は普通の人に見える。
その手が肌色からドス黒い色へと変色しているのが見えたからだ。
「痛いのか?慌てると転んで危ないぞ」
躊躇なく手をとったことに驚いたのは集まってきた周りの人たちだ。
「聖人様…いけません。このような穢れた手を…」
「何言ってるんだ。一生懸命働いた手じゃないか」
「聖人様…!」
ゴツゴツとした大きな手はあちこちが硬くなっていて、毎日毎日使わなければこんな形にはならない。
おいおいと泣き出す人たちに、豊は困ったように頭をかいた。
(泣き出す玄米とか、笑っちゃいけないのに笑いそうになる…)
「……精米、したいな」
そう呟いた、その時だった。
指先が、ほのかに温かくなった。
「……え?」
次の瞬間——
「な、なんだ…!?」
「この光は一体…!」
突然光輝き出すのは豊が手を握った人だ。
光に目を細めたカシウスの表情から、初めて笑みが消えた。
光が収まる頃には、豊の目の前の人の頭は玄米ではなく、普通の人の頭に見えていた。
「見ろ…!手が…!!」
「痛みが…ない!」
喜びと驚きの入り混じった声が響く。
光が消えると、その人の頭はもう玄米には見えなかった。
(……玄米じゃ、なくなった)
分かっていないのは豊ばかりで、周りの人間は歓喜に沸いている。
「聖人様!私も…!私もお願いします!」
「私も!」
「分かった分かった!順番にやるから!」
夜。
教会に宿泊することになった豊は、部屋の中でじっとしていられなかった。
(エレンがここにいるか分からないけど…)
急にいなくなったことが、どうにも腑に落ちない。
そっと扉を開けて、廊下に出る。
「聖人様!?」
「しっ」
護衛のルーカスが慌てて飛び起きたのを、豊は手で制した。
「ちょっと、外の空気吸いたくて」
「それは困ります……!」
「大丈夫、すぐ戻る。ちょっとだけ」
渋るルーカスを宥めながら、豊は廊下を歩いた。
(エレンがいるとしたら……どのあたりだ)
教会の中を、ゆっくりと歩く。
その時。
廊下の向こうから、人影が現れた。
荷物を抱えた男。夜中にこんな場所を歩く理由が思い当たらない。
そして——その頭が。
(玄米だ)
はっきりと、玄米に見えた。
(……この人も体が悪いのか?)
今回ばかりは、我慢しなくていい理由がある。
豊は、男に近づいた。
「ちょっといいですか」
「な、なんですか!?」
豊は小さく呟いた。
「精米」
次の瞬間。
男の体が、淡い光に包まれた。
「……っ」
男が膝をつく。
苦しそうに胸元を押さえ、何かに耐えるように歯を食いしばった。
「お、おい……大丈夫か?」
豊が思わず声を掛ける。
しかし男は答えない。
震える唇を何度も閉じようとする。
それでも——。
「も……申し訳、ございません……!」
まるで口を押さえつけていた何かが弾け飛んだように、男は叫んだ。
「私は……教会から依頼を受けて、勇者様を運びました……! まだ調整も済んでいない薬まで運びました……! 教皇様にも……勇者様にも……!」
「その話は本当なのか」
ルーカスが一歩前へ出る。
「ほ、本当です……! 嘘をつこうとしても……口が……止まらないんです……!」
男は自分の口を押さえた。
豊は男を見た。
男の頭は、もう玄米には見えなかった。
なのに、口だけは止まらない。
(精米したら……喋り始めた?)
(玄米じゃなくなったのに……俺、一体……何を精米したんだ?)
ルーカスが真剣な目で男を見据える。
「勇者様を、どこに運んだ」
「教会の奥です……! 北の塔にある、限られた者しか入れない部屋へ……!」
「案内できるか」
「は、はい……!」
男に案内されて辿り着いたのは、教会の奥深く。
重厚な扉。周りの造りとは明らかに違う、古い石造りの廊下。
「……ここか」
「はい。この先に……」
「ルーカス、開けられるか」
ルーカスが、扉をじっと見た。
「……鍵が必要です。ですが」
腰の道具入れを探って、細い金具を取り出す。
「やってみます」
カチャカチャと音がして——やがて、重い音を立てて扉が開いた。
「聖騎士ってそんなこともできるのか」
「騎士団の訓練で……色々と」
ルーカスが、少し複雑な顔をした。
扉の先は、薄暗い廊下だった。
蝋燭の灯りだけを頼りに、二人は進んだ。
やがて、もう一つの扉。
豊が、そっと押すと——軋む音を立てて開いた。
部屋の中が、月明かりでぼんやりと見える。
窓に、鉄格子。
ベッドの上に、人が横たわっている。
豊が駆け寄る。
薄く開いた瞼。
焦点の合わない目が、ゆっくりとこちらに向く。
まるで普段のエレンからは考えられないほど、正気を失った表情。
思わず声が出なくて、小さく息を呑んだ。
そっと体を起こすと、思った以上に華奢な体に豊の胸が傷んだ。
(こんな細かったのか…こんなになるまで助けられなくてごめんな…)
あのエレンが、自分にもたれかかっている。
「エレン」
豊の呼びかけに、エレンが口を開いた。
「……」
けれど、掠れて何も聞き取れない。
「帰ろう」
「聖人様、急がないと見つかってしまいます……!」
「分かってる」
豊は立ち上がって、エレンをそっと抱き上げようとした、その時。
「困りますね……勇者様をどちらにお連れになるつもりですか?」
冷え切った声が、廊下に響いた。
薄暗い廊下の奥に、カシウスが立っていた。
柔和な笑顔のまま、こちらを見ている。
豊は、エレンを抱えたまま、カシウスを見据えた。
「ルーカス、エレンを頼む」
「え、聖人様!?」
「大丈夫」
カシウスを見る。
「俺、喧嘩はあんまり強くないけど」
豊は、静かに言った。
「荷物運びなら、得意だから」




