第65話 豊side③
翌朝。
いつもなら脱走している豊を追いかけてくるエレンの姿が、どこにもなかった。
昨日の夜から、姿を見かけていない。
兵士やメイドに聞いてみても、首を横に振るばかりだ。
(もしかして、教会の方にいるのか……?)
聖人の警護を目的として、いつも一緒にいたのに、それが突然なくなった。
嫌な予感がじわじわと広がり始めた頃。
「聖人様! お待ちください!」
廊下から声がした。
振り返ると、息を切らせた若い騎士が小走りで追いかけてきた。
「勇者様に代わり、私が聖人様の警護を務めさせていただきます!」
豊と年も離れていないような、どこか辿々しい聖騎士だった。体をこわばらせて、緊張しているのが見ているだけで分かる。
「エレンはどうしたんだ?」
「勇者様は、急ぎ魔物討伐への遠征へ向かわれたと聞いております!」
「……遠征」
「はい!」
(魔物討伐だったら、あり得るのか……?)
でも、豊の頭から教会を調査すると言ったエレンの一言が離れない。
もし、エレンに何かあったとしたら。
米屋では「豊のことは気に入らない」と言っていたけれど、最近では軽口を叩くほどに打ち解けていたと思っていた。
ひょっとしたら、本当に嫌で配置転換を希望したとか——
いや、それはない。
本当に嫌いだと思われていたなら、豊には分かる自信があった。父親譲りのお人好しと言われるが、そういった感情を感じ取るのは得意だ。
(エレンは、そういう奴じゃない)
どうすればいい。
豊を悩ませるのは、エレンのことだけではなかった。
実は最近——城の中を歩いていると、時たま人の頭が玄米に見えることがあるのだ。
……いや、決してふざけているのではない。本当にそう見える時があるのだ。
それをエレンに話した時は。
「変なものでも拾って食べた?」
心底残念そうなものを見るような目で見られた。
それ以来、決して口に出さなかったけれど。
(俺だって傷つくんだぞ……?)
ちょっといじけてみても、状況は悪くなる一方だ。
こんなにお米を食べていない期間が今までなかったせいなのか。それとも本当にお米が恋しいのか。
最近では王様の頭まで玄米に見えるのだ。
冠を被った玄米。
……なかなかにシュールだ。
頭が玄米に見えるせいで、親しげに声をかけてくる人物が一体誰なのかさっぱり分からない時がある。
それ以上に問題なのは、玄米ばかり見ていると、どうにも精米したくて体がうずうずしてくることだ。
(落ち着け俺。精米したいとか、そういう場合じゃない)
「聖人様? どうかされましたか?」
辿々しい聖騎士が、心配そうに覗き込んでくる。
その頭は、普通の人間の頭だった。
(よかった。この人は大丈夫だ)
大丈夫って何が、という話だけれど。
そのまま廊下を歩いていると、向こうから歩いてきた貴族らしき人物とすれ違った。
ちらりと見た瞬間——玄米だった。
(うずうずする……)
「聖人様?」
「な、なんでもない! 行こう!」
聖騎士を引っ張るようにその場を離れながら、豊は思った。
(エレンに早く会いたい。これ、絶対おかしいから)
エレンはゆっくりと瞼を持ち上げた。
体はひどく重くて、指一本動かすことさえ難しい。
柔らかな光が差し込む部屋は、意識を失う前のことが全て夢だったのではないかとさえ錯覚させる。
けれど、窓に嵌められた鉄格子が、これは決して夢ではないということをエレンに突きつけた。
視線をそのまま動かすと、普段着ているはずの格好ではなかった。
「何……これ」
男として振る舞っているから、ドレスなど着ることもない。
けれど今は、まるでどこかの令嬢のような淡いブルーのドレスだった。
肌を隠しながらも女性らしい曲線を際立たせる仕立て。
繊細な刺繍と、柔らかで透け感のある素材。
かつて幼い頃に憧れて、もう二度と着ることなどないだろうと思っていたもの。
けれど、そんな幼い頃の憧れは、エレンの気持ちを浮き立たせるものではなかった。ただ、更なる絶望へと追い込むスパイスでしかない。
「……っ、動け!」
魔物と戦うために鍛えてきた体が、こんなにあっさりと屈するわけにはいかない。
震える手で体を持ち上げて、どうにか周りの状況を把握しようとする。
けれど自由に動かない体はバランスを崩し、ベッドから転げ落ちた。
「くそ……!」
重厚なカーペットのおかげで体は痛くない。
でも、そこから起き上がれない。
そうこうしているうちに、扉の開く音がした。
「お目覚めになられましたか」
今一番聞きたくない声だった。
「今は無理をしない方がよろしいですよ。薬が効いていますから」
エレンの側までやってきたカシウスは、柔らかく微笑んでエレンを抱き起こした。
「大切な勇者様に傷がついたら大変です」
「触るな……っ」
抵抗したいのに、さっきので力を使い果たしてしまったかのように腕には力が入らない。
カシウスの息遣いが聞こえるほどの距離。
エレンの中で、感じたことのない嫌悪感と恐怖が迫り上がってきた。
「ご安心ください。まだ何もしませんから」
まだ、ですが——。
柔和に微笑むカシウスは、壊れ物を扱うように丁寧にエレンをベッドの上へと横たえた。
エレンがカシウスを睨みつける。
けれどカシウスはエレンの手を大事に持ち上げて、うっとりとしたように頬擦りをした。
「……なんて美しいのでしょうか」
その目の奥に、今まで勇者を好き勝手に使ってきた王家への怒りが滲む。
「ご安心ください、勇者様。もう、戦いに身を投じることはしなくて良いのです」
カシウスが、囁くように続けた。
「これからは、ずっとこの安全な鳥籠の中でお過ごしいただけます。もう、誰からも貴女を傷つけさせはしません。私がずっと、ずっと貴女の側におります」
エレンの表情が、初めて恐怖で崩れた。
けれどカシウスはそれを見て——狂気に染まった笑みを浮かべた。
次の日も、エレンはベッドの上にいた。
そばで着替えや食事の介助をするのは、教会に勤めるシスターだった。
顔はすっぽりと布地で隠されていて、一体誰なのか分からない。
一言も話すことなく、淡々とエレンの身支度を整える。
そして、時間になるとカシウスがやってくる。
「さぁ、勇者様。苦痛からの解放のお時間です」
カシウスが持ってくるのは、どろりとした液体だった。
無理やり口の中に流し込まれると、瞬く間にエレンの意識が朦朧としていく。
「どうぞお眠りください」
苦しい記憶から、貴女を解放して差し上げます——。
そう言って笑うカシウスに、エレンはなす術がなかった。
その次の日も、その次の日も。
同じように薬を飲まされて、もはやエレンは起きているのか眠っているのかさえ分からなくなっていった。
ただ一つ、かろうじて意識を保てているのは、心の奥底にある強烈な悔しさからだった。
幼い頃に奪われた時間。
家族同然の孤児院から引き離され、幼馴染にも裏切られ、人生のほとんどを誰かに奪われたまま。
そうして、女であることを諦めた矢先に——さらにエレン自身の存在さえも踏み躙られなければいけないのか。
誰でもいい、助けてほしい。
そう願ってしまった。
けれど、誰も来ないことを、エレンは知っていた。
どんなに助けてほしいと思っても、幼い頃から誰も助けてくれなかったことを。
幼馴染の約束も、あっさりと破られたことを。
もう、自分は誰にも助けられない。
諦めてしまえば、楽になれるだろうか。
最後に残った理性の一本が切れかけた時、エレンはその名を口にした。
「ゆ、たか……」




