第64話 番外編 豊side②
聖都ルーメリアの、教会の奥深く。
限られた者しか入ることを許されない場所で、二人の人間が向かい合っていた。
一人は、王家の紋章を胸に刻んだ貴族。もう一人は薄い廃紫の長い髪を持つ、枢機卿カシウス。
「話を整理させてください」
貴族が、慎重に口を開く。
「聖人は、王家にお渡しする」
「はい」
「その代わり、勇者様には教会で静かにお過ごしいただく」
「おっしゃる通りです」
カシウスが、穏やかに微笑んだ。
その笑みは、誰が見ても聖職者らしい柔和なものだった。
「……条件が、それだけとは思えませんが」
貴族の目が、細くなる。
「もちろん」
カシウスは、静かに続けた。
「現在、教皇陛下のご体調が優れません」
「……それは存じております」
「ご高齢でもありますし、もし万が一のことがあれば、次の教皇を選出する必要が生じます」
「枢機卿、あなたは」
「私は、ただ申し上げているだけです」
カシウスが、手を組んだ。
「教会と王家が、同じ方向を向いて歩めるなら…それが一番、この国にとって良いことではないかと」
貴族は、しばらく黙っていた。
「……教皇陛下のご体調が、これ以上悪化することはないのでしょうね」
「それは女神のみぞ知ることです」
カシウスが、静かに祈るような仕草をした。
しかし、その目だけが笑っていなかった。
数日後。
教皇が公の場に姿を見せなくなり、民衆たちの間で噂が広がっていた。
「ご体調が優れないとのことで、しばらく療養されるそうだ」
「随分と突然だな」
「おいくつになられたのだったか……」
「もう何十年もお努めになられている。無理もないだろう」
囁き声が、教会の廊下を流れていく。
そして、その囁きはやがて別の噂と混ざり合った。
「次の教皇は、カシウス枢機卿ではないかという話だが」
「あの方が教皇に?」
「民衆からの人気は、群を抜いておられるからな」
「ご自身はまだお若いのに、清廉で慈悲深くて……」
清廉…その言葉が廊下に溶けていく頃、別の噂も城の中で囁かれ始めていた。
「聖人様が、第三王女と結婚されるのではないか」
「まあ。それは素晴らしい」
「聖印の血筋が、王家に入るとなれば…」
噂は噂を呼んで、どんどん大きくなっていく。
その頃、豊はまだ何も知らないまま、城内でメイドの掃除を手伝っていた。
エレンが一人で外壁沿いを歩いていたのは、夕暮れ時のことだった。
カシウスと廊下で顔を合わせた後は、どうにも気持ちが落ち着かなくて、一人になる時間が必要だったからだ。
「……エレン」
声がした。
反射的に手が剣の柄に伸びかけて…顔を見て、止まった。
「キリ!?」
銀髪のエルフが、木の影から出てきた。
「久しぶりだな」
「なんでここに……っていうか、結衣は!?」
「無事だ」
その一言で、エレンの肩から力が抜けた。
「……そうか。良かった」
本当に、良かった。
あの転移術に巻き込まれてから、ずっと気になっていた。
「今は、魔族領にいる。魔王城で保護されている」
「魔王城……あの魔王と一緒に?」
「そうだ」
「……それなら安心か」
「豊にも伝えた方がいいな。あいつ、結衣のことずっと気にしてるから」
「そうしてくれ。ただ…慎重に頼みたい。噂の”聖人”様に兄妹がいるなんて分かったら大変だろ?」
「……国中が騒ぎ出しそうだ」
エレンは壁に背を預けながら続ける。
「で、わざわざここまで来たのはそれだけじゃないだろう」
「分かるか」
「顔に書いてある」
キリが、少し間を置いてから続けた。
「リシェル…魔王幹部の情報網が、教会の動きを掴んだ」
エレンの目が、すっと細くなった。
「教会が何かを始めている。詳細はまだ掴めていないが……教会の裏口に出入りする商会がある。運んでいる荷が、どうにも普通じゃない。」
エレンは、しばらく黙っていた。
(カシウス……)
あの目を、また思い出す。
「気をつけろ、とだけ言いに来た。巻き込まれるなよ」
「分かった。気をつける」
キリが、踵を返しかけて——少し止まった。
「結衣も豊のことを気にしていた。豊は、変わらず元気そうだったか」
「相変わらずだ。今日も城内で掃除の手伝いをしていた」
「……そうか」
どこか安堵したような表情のキリ。
「では」
「ああ。ありがとう、キリ」
キリは、夕暮れの路地に消えていった。
エレンは、しばらくその場に立っていた。
(教会の動き……か)
視線を、教会の方角に向ける。
カシウスの柔らかな笑顔。
その奥にあった、冷たい瞳。
(……嫌な予感がする)
あの男は、一体何をしようとしている。
エレンは、小さく息を吐いて、城の方へ歩き出した。
まず、豊に伝えなければ。
結衣が無事だということと。
そして、何かが動き始めているということを。
翌日。
豊に結衣の話を伝えると、案の定騒ぎ出した。
「結衣が魔族領に!? じゃあ早く行かないと!」
「落ち着け」
「落ち着いてられるか! 俺の妹が…」
「無事だと言っただろ。魔王に保護されている」
「魔王って……ノクスか?」
「そうだ」
豊が、少しだけ黙った。
「……まあ、あいつなら大丈夫か」
「そういうことだ。今は、こちらで動ける状況になったら連絡する手はずになってる」
「それまで待てってことか……」
「その間に、やることがある」
エレンが、声を低くした。
「教会の動きが怪しい。キリから情報が入った」
「教会?」
「裏口から出入りしている商会がある。荷が怪しいと」
「……調べるのか」
「僕が動く。お前は——」
「俺も行く」
「駄目だ。聖人が動き回ったら目立つ」
「エレンだって勇者だろ」
「僕はいいんだよ。大体、今だってどっかの脱走癖のある聖人様を探すのにあちこち出歩いているんだから」
エレンの言葉に、豊は何も言えない。
渋々納得した豊が、不満そうに口を尖らせた。
「じゃあ、何かあったらすぐ言えよ」
「……分かった」
数日後の夜。
王城を出てしばらく歩いた先にある教会。その裏手に、エレンは身を潜めていた。
キリから聞いた話通り、裏口から人が出入りしている。
荷を運ぶ男たちの服装は、一見普通の商会の者に見えた。でも——運んでいる荷の量が、どう考えても夜に動かすものではない。
(後をつけるか)
距離を保ちながら、男たちの後を追った。
路地を抜けて、さらに細い道へ。やがて辿り着いたのは、教会の敷地内にある古い建物だった。
男たちが中に入るのを確認して、エレンはそっと窓から覗き込んだ。
部屋の中には、棚が並んでいる。
棚の上に、無数の瓶と束。
(薬草……?)
でも、普通の薬草じゃない。
エレンの目が、ある束で止まった。
紫がかった茎。独特の形の葉。
(これは……)
棚の奥に、別のものが見えた。
紙の束。
引き寄せられるように目を凝らすと——そこには、「被験者」という文字が見えた。
(実験……?)
背筋に冷たいものが降りていく。
もっとよく見ようとして、窓枠に手をかけた、その瞬間。
背後で、カランと瓶が倒れる音がした。
「!」
振り返るが、誰もいない。
(誘われた……!?)
気付いた瞬間には遅かった。
ドッ
「…っ」
後頭部に衝撃が走る。
視界が暗くなった。
気づいた時には、見知らぬ部屋にいた。
体が、動かない。
ぼんやりとする頭で、周囲を見渡す。
石造りの壁。薄暗い明かり。どこか地下のような、じめついた空気。
そして部屋の隅に、椅子に座った人物がいた。
白い法衣。でも、その目は虚ろだ。
(……教皇?)
体調が優れないと言われていた教皇の姿がそこにあった。
「お目覚めになりましたか、勇者様」
扉が開いた。
薄い廃紫の髪。彫刻のような顔立ち。
柔和な笑みを浮かべながら、カシウスが入ってきた。
「ご無事で何よりです」
エレンは拘束された手足を確認しながら、静かにカシウスを見た。
「……何のつもりだ」
「本来であれば、もっと穏便に事を進める手筈だったのですが。…勇者様は余程好奇心が強いと見える」
身動きの取れないエレンの腕を、カシウスの指が触れる。
「ですが、結果的に良かったのかもしれません。これでやっと、貴女をお救いすることが出来る」
カシウスの手が止まった場所には、服に隠れて見えない聖印が刻まれている。
にこりと笑うカシウスに、エレンの脳内で警鐘が鳴り響く。
「さっきから意味の分からないことを…。救ってくれるっていうなら、とっとと拘束を解いて欲しいね」
決して相手に弱みを見せたらダメだ。
けれど、カシウスの手が触れている場所から、まるで毒を流し込まれているんじゃないかと思えるぐらいに気持ちの悪さが広がっていく。
「もちろん。準備が整い次第、すぐに拘束は解かせて頂きます」
”それまでは、どうぞゆっくりお休みください”
変わらぬ笑顔のまま、カシウスが側にある蝋燭に粉末を散らした。
途端に、甘い香りが部屋中に広がっていく。
(…くそっ)
急激に遠ざかる意識の中、エレンは悔しさに顔を歪めた。




