第58話 魔王城での癒し
次の日も、結衣は大量にある帳簿と格闘していた。
昨日と一つ違うのは、運ぶのを手伝う小さい体がちょこちょこと動くことだ。
小さな足を動かして、腕いっぱいに資料を運ぶ姿は、少し可愛らしい。
「ありがとう、ベルン」
「い、いえっ…!」
緊張気味に返事をする小さなバフォメット族のベルン。
セヴランのいる財務部預かりとなって、今は結衣が帳簿を解析する手伝いをしていた。
80年というあまりに長い期間の無償労働だと聞いた時は、その途方もない時間に気持ちが揺れた。
けれど、それだけ重い罪ということなのだろう。
結衣は何も言わずに、そっと右手を差し出した。
「よろしくね、ベルン」
「は、はいっ!よろしく、おねが、いします!」
結衣に出来ることは、緊張気味のベルンが少しでも解れるように笑顔で声をかけることだけだ。
「いいですかベルン。私はやむなく自分の仕事のために執務室へと戻りますが、くれぐれも、くれぐれもユイ様の解析の邪魔にならないように」
「はい!」
「この奇跡の力を間近で見られることを光栄に思いなさい。…全く、本当は私がずっと見ていたいと言うのに…」
ぶつぶつと文句を言うセヴランの最後のセリフは、小さすぎて結衣の耳には届かなかった。
「良いですか、邪魔にならず、尚且つ迅速に解析が出来るようユイ様に力を…」
「セヴラン、お前は早く自分の仕事に戻れ」
「…っく!」
名残惜しそうに部屋を出ていくセヴランを見送った後、ノクスは振り返って結衣の肩を掴んだ。
「いいか、必ず休憩はするんだぞ。途中で様子を見にくるからな」
「無理はしない、体調に違和感があったら、すぐにノクスに報告、でしょ?」
昨日から耳にタコが出来るほどノクスに言われ続ける言葉に、結衣は苦笑いをしながら言う。
ノクスは次に視線を低くし、ベルンの肩に手を置いた。
「…いいかベルン」
心なしか声は低く、結衣には聞こえないように声を落とす魔王。
「結衣に無茶はさせるな必ず休憩させろ。もし休憩させずに結衣に無理をさせてみろ…」
段々と肩を掴む魔王の手の力が強くなっていく。
「その時は生きていることを後悔することになるぞ」
「ひっ!!」
「ノクス?」
「今、お前が無理をしないよう見張っているように言った」
「もう、大丈夫だって」
振り向いて結衣に笑いかけるノクスの表情からは、先ほどベルンに向けていた表情とは全く違う。
直属の上司からは円滑に仕事を進めるよう言われている。
一方で、魔王本人からは無理はさせるなと言われている。
(こ、これは大変な場所に来てしまったのでは…!)
冷や汗が止まらないベルンだった。
「きゅ、休憩時間です!」
手に持っていた時計を確認したベルンの言葉に、結衣は解析し終わった帳簿を横に置いて顔を上た。
「あと一冊で一年分が終わるから…」
手に取ろうとした帳簿が、横からすっと引き抜かれる。
「だ、ダメです!休憩です!」
ベルンは結局、迅速に仕事を終わらせつつ、休憩時間は絶対に取るという方法を選んだ。
「一冊だけ…」
「ひゃっ!?ダメですー!」
手を伸ばした結衣の手から逃れるように、早足で帳簿を持ったまま逃げるベルン。
(“ひゃっ”て言った…)
絶対に渡さないとばかりに帳簿を抱えるベルンが可愛らしくて、結衣は思わず笑ってしまった。
「分かった。じゃあ、ベルンも休憩しよう?」
ノエルに入れてもらったのは、バフォメット族の土地でもらってきた緑茶だ。
皿にはお茶請けとして小さなクッキーが置かれている。
「ベルンも食べて?バフォメット族の人も食べられるやつ、ノエルに持ってきてもらったから」
「あ、ありがとう、ござ、います!」
休憩中に他愛ない話をして、少しでもベルンの緊張が解れればと思ったけれど、カタカタとカップを持つ手が震えていて、結衣は困ったように眉を寄せた。
(どうしたらもっと打ち解けられるかな…?)
魔王城での奉仕は罰だとしても、見知らぬ場所に一人にされてしまう心細さを結衣は心配していた。
最初の休憩は結局打ち解けられず、そのまま作業に戻る。
その途中、ベルンは運んでいた資料を持ったまま綺麗に転んでしまった。
途端に部屋いっぱいに書類が宙を舞う。
顔面蒼白になったのはベルンだ。
ユイ様の仕事が円滑に進むよう手伝えと言われたのに、とてつもない失敗だ。
それに動揺したのか、思わず体が積まれた帳簿に当たって雪崩のように倒れていく。
あっという間に部屋の中はぐちゃぐちゃになってしまった。
「も、申し訳ございません!!」
地面に擦り付けるように頭を打ち付け、そのまま土下座をして許しを乞う。
「本当に申し訳ございません!すぐに片付けますので…」
体の震えが止まらない。
ベルンは昔から自分が大嫌いだ。
エルバ様に色々なことを教わったし、出来るようにもなった。
けれど、この臆病でそそっかしい性格だけはちっとも治らない。
(やっぱり、僕は出来損ないだ…)
バフォメット族は山岳地帯を渡り歩いた種族だ。
その体は大きく力強く、魔族としては珍しく草食だけど、力ではどの種族にも負けない種族なのに。
兄弟の中で小さいのは自分だけだ。
他に見てもこんなに小さなバフォメット族は見たことがない。
小さな体も、細すぎる腕も、何もかもが大嫌いだ。
必死に涙を堪えていると、温かい手がベルンの背中に触れた。
「大丈夫?怪我してない?」
顔を恐る恐る上げると、しゃがみ込んでこちらを心配そうに見る結衣の姿。
(この人は、どうして怒らないんだろう)
「立てる?」
差し出された手が、昔、差し出されたエルバの手と重なって見える。
「大丈夫、です。本当に、申し訳ありません…」
辺を見渡せば、バラバラに散らばった書類とぐちゃぐちゃになった帳簿の山。
「怪我がないならいいよ。さて、じゃあ書類をまとめるところからやろうか」
「…して」
「…?」
「どうして、ユイ様はそんなに優しいのですか…?私は、私は…」
”人間にもひどいことをしたと言うのに…”
人間だったら、別に禁制薬草をどう使おうが別に構わないと思った。
実際に人間がどんな使い方をしたのか知らないし、知ろうとも思わなかった。
けれど、同じ人間である目の前の結衣を見ていると、ベルンの中で小さく後悔の気持ちが膨らんでいくのが感じられる。
「誰だって間違えるよ。大事なのは、その後どうするか」
結衣の伸ばした手が、ベルンを抱き寄せる。
すっぽりと結衣に収まるほど小さな体に、結衣の体温が移っていく気がした。
「ベルンはちょっと一生懸命頑張りすぎちゃうだけ。だから、私はベルンが頑張りすぎないように甘やかすの」
そのまま頭を撫でられると、ベルンの目からポタリと涙が溢れた。
「それに、魔族の人って大きい人多いじゃない?ベルンみたいな人がいる方が、安心する」
いつの間にか、体の震えは止まっていた。
「…ユイ様」
ベルンが口を開きかけたその時。
「これは一体どう言うことだ?」
「なぜ書類が散乱しているのでしょうか」
いつの間にか部屋に入ってきたのか、魔王とセヴランがこちらを見ている。
魔王様はそれはそれは恐ろしいほどの冷ややかな目で。
セヴラン様は恐ろしいほどの笑顔で。
(ユイ様、私は本当に死んでしまうかもしれません…)
ベルンは遠くなりそうな意識を保つので精一杯だった。




