第48話 私何も見ていません!
「…ん」
まぶたの向こうに光を感じる。
ゆっくりと目を開けた結衣は、ぼんやりとした視界の中で、静かに呼吸している子竜の様子を見る。
(良かった…ちゃんと息してる)
そっと背中を撫でると、昨日よりも気持ち体温が上がっている気がして嬉しくなる。
そして不意に、子竜の向こう側。
目の前に黒い壁があることに気付いた。
視線を上に向けると、綺麗な顔がすぐ側にある。
艶やかな黒髪が無造作に散らばっていて、朝の光に照らされて神秘的に光っている気がする。
陶器のような白い肌、すっと通った鼻筋、そして伏せられた瞼から伸びるまつ毛は羨ましいくらい長い。
「…っ!?」
思わず叫び出しそうになる口を慌てて塞ぐけれど、バクバクと音を立てて鳴る心臓の音が結衣の耳に響く。
(ノクス!?なんで一緒に寝てるの!?昨日は…)
突然のことでパニックになりかけた頭に、唐突に部屋にやってきたノクスが寝るまで見張ると言い出したことを思い出した。
(びっくりした…朝から心臓に悪すぎる…)
多分、ノクスもそのまま寝てしまったんだろう。
すぐ近くにある綺麗な顔。
心臓はすぐに落ち着いたけれど、今度は結衣の顔に熱が集中していく。
「ん…」
小さく漏れた声はどこか色っぽい。服が乱れて、普段は見えない鎖骨が見える。
(ノクスが寝てるところなんて初めてみたけど…)
このまま見ていたい気持ちと、どこか見てはいけないものを見ている気がして罪悪感を覚える気持ちとで、結衣の心はせめぎ合っていた。
コンコン
「失礼します、結衣様。本日は…」
「あ…」
多分、いつもの結衣だったらとっくに起きている時間なんだろう。
ノエルがいつも通りに支度をするために部屋に入って来て、そしてぴたりと動きを止めた。
「ノエル…?」
「わ、私何も見ていません!」
サッと両手で目を隠し…いや、指の間からこちらを見ているのがはっきり見えた。
「見えてる!隙間からバッチリ見てる!」
「いいえ!何も見ておりません!私、急いで湯浴みの支度をして参ります!」
「ちょ、待って!違うって…!」
ごゆっくりどうぞー、とノエルが叫びながら部屋を出ていく。
バタンと締められた扉の音に、ノクスの瞼がゆっくりと持ち上がった。
「なんだ…騒がしい」
ノクスが何度か瞬きをすると、ようやく自分が眠ってしまっていたことに気付いたらしい。
珍しく、ノクスの頬に赤みがさす。
「ノクス、寝ちゃったの!?」
「…不覚だった」
朝食の席は、なんとも気まずいものになった。
あれから何度も誤解だとノエルに言っても、笑顔でかわされるばかりで、全く耳に入っていない様子だった。
そして食堂で待っていたのは、どこか視線が定まらないノクスと、テーブルの上にこれでもかと言うほど盛り付けられた料理たち。
明らかに朝食の量ではない。
「な、何これ…何かのお祝い?」
「…。」
ノクスは何も言わないし、クロードさんも視線を合わせようとしない。
「無理に食べようとしなくていい。いつものように、食べればいい」
「残されたものは他の者たちで分けますので、ユイ様は何も迷うことなく、お好きなものをどうぞ」
「…?」
結衣が戸惑ったように席につくが致し方ない。
これはいわゆる祝膳というやつで、初めて共に夜を明かした魔王様とその相手とされる結衣への厨房からの心遣いというやつだ。
普段は食べないような、体力を回復させるための薬草を使ったり、滋養強壮に効くとされる食材を使ったり…。
つまりは、体を労わりつつ次にも備えてくださいという、なんとも結衣に言える代物ではないのだ。
黙々と食べるノクスを横目に、結衣も食べれそうなものをよそって口に運んだ。
「セヴランから、今日…いや、しばらくは休みでいいと連絡があった」
「え?」
「理由は聞かないでくれ。しばらくすれば、また通常通りに戻る」
(今は忙しくないってことなのかな…?)
「これでお前はあの子竜の看病に専念できるから良いのではないか?」
「それはそうだけど…」
どこか納得しない様子の結衣だが、こればかりはノクスの口からも説明できるものではなかった。
「全く…どうするんですか、魔王様」
「すぐに噂など消えるだろう」
「甘いですよ。リシェルがいない今、情報はどんどん民衆に広がっていきます」
情報統制を担うリシェルがいれば、精神干渉で噂の沈静化も早かっただろう。
けれど、今リシェルはこの城にいない。
「それに、城下でユイ様の話はすでに民の間に広がっています。優しい方だと評判は良さそうですが…」
魔王様が人間を側に置いている…その話に、子供達と触れ合っていた結衣の様子や、魔王様と同衾されたという噂まで広がれば、もはや魔王妃となる方だという話は一気に国中に広がるだろう。
本人たちの意思に関係なく、勝手に民たちは盛り上がる。
魔王様の良い人は本当にいたのだ、と。
魔族ではなく、人間だということに反感を覚えるものもいるだろうが、表立って攻撃されるようなことはないだろう。
ノクスはしばらく考えて、そして不意に思った。
(別に噂が広がっても構わないのでは…?順番が逆になるだけで、結衣を本当に魔王妃にしてしまえば…)
「魔王様、外堀を先に埋めてしまえ、などと考えているわけではありませんよね?」
「…………違う」
「その間はなんですか」
「…事実にしてしまえば、別に気にする必要はないのでは、と考えただけだ」
「それを私は言っているのですが!?」
(何ですか!?その無駄に前向きな考え方は!?)
クロードが改めてノクスに話そうとした時だった。
トントン
控えめなノックが聞こえてきて、誰がやってきたのかすぐに分かった。
「どうした。入れ」
「ごめんね。仕事中だった?」
「いいや。今建設的な話をクロードとしていたところだ」
(どこがですか!?)
「仕事がないから、やることがなくて…。勉強になりそうな本があったら教えて欲しくて来たんだけど…」
「構わない。座って待っているといい」
ノクスは棚の中から、数冊の本を持ってきて結衣に渡す。
「これは魔族領で取れる資源をまとめたものだ。人間の土地のものも、少ないが少しはまとめてある。これで、書類に書いてある資源がどんなものなのか把握するといい」
「挿絵があってわかりやすそう。ありがとう」
「…結衣」
「…?」
本を受け取って戻ろうとする結衣を、ノクスは呼び止めた。
「ここで、読んでいかないか?分からないことがあれば、すぐに教えられる」
「でも、仕事の邪魔になっちゃうし…」
「教えるくらいなら、別に構わない。子竜の様子が気になるのなら、ここに連れてくればいい」
「…分かった」
今、連れてくる、そう言って部屋を出ていった扉を満足そうに見るノクス。
そして、クロードの方をチラリと見るノクスから感じる無言の圧力。
「…私は出ていきますから、ご安心を」
「そうか」
少し嬉しそうに口角を上げるノクスの、なんと分かりやすいことか。
「いいですか。絶対にユイ様に無理強いはダメですからね」
「私は結衣に無体を働いたことはない」
(昨日、ユイ様の部屋に押しかけた張本人が何を言うか…)
クロードはため息を一つ落として部屋を出た。




