第40話 1歩前へ
翌日。
朝食を終えて、昨日と同じようにセヴランの執務室へと向かった。
今度はセヴランも渋々迎え入れてくれて、机の上には30枚ほどの紙が置かれていた。
「比較的簡単な会計処理のものを置きました。魔王様から聞いています。文字が読めぬと」
「……すみません」
「謝罪など不要です。私が求めるのは結果なので」
作業を始めてください、そう言ってセヴランはさっさと自分の机へと向かっていった。
結衣は、昨日ノクスからもらった本と、日本語と魔族語で書かれた自前のノートを広げて目の前の書類に向かった。
セヴランは自分の仕事を処理しながら、横目で結衣の様子を見る。
(どうせ長くは持つまい。さっさと諦めればいいものを)
昨日の書類の仕分けは完璧だった。
しかし本人が理解してやったわけではないらしい。
便利な力を持っていても、最後の処理まで自分でできなければ、いい足手まといだ。
数時間前まで、セヴランはそう考えていた。
ところが。
なかなかに、しぶとい。
お昼の時間を過ぎているのに、まだずっと書類と本とノートを見比べている。
分からない部分はノエルに聞いて、また書類に向き直って。何度も何度も何度も——。
(……諦めないのか)
セヴランは、手元の書類に視線を落とした。
コンコン。
部屋をノックする音が響いた。
入ってきたのは、トレーを持ったクロードだった。
「魔王様から、ユイ様にと」
クロードが持ってきたのは昼食だった。温め直したのか、スープからは湯気が立っている。
「嘘!もうこんなに時間経ってたの?」
クロードが現れたことで、昼食の時間をとっくに過ぎていることに気づいたらしい。結衣が慌ててクロードに歩み寄った。
「あの……ノクス、何か言ってましたか?」
お昼をすっぽかしたことへの罪悪感からか、気まずそうに聞く。
「魔王様から、あまり根を詰めすぎないようにと」
「はい……」
(まぁ、魔王様が言える立場ではないのですがね)
クロードは内心でそっとため息をついた。
いつも食事も睡眠も、こちらが催促しなければ仕事漬けの毎日だったというのに。
最近は規則正しい生活を送っていて、それだけで奇跡に等しい。
それもこれも、結衣に合わせるためのものだということに——本人は全く気づいていないが。
「ありがとうございます、クロードさん」
「いえ。ゆっくりお召し上がりください」
クロードが退室すると、結衣はスープを一口飲んだ。
「……美味しい」
ほっとしたような、その顔。
セヴランは、書類に視線を戻しながら——ちらりと、一度だけ結衣を見た。
(まったく)
なぜ魔王があそこまでするのか、昨日まではよく分からなかった。
でも今は——少しだけ、分かる気がした。
(もう少しだけ、様子を見てあげてもいいでしょう)
結局、30枚全てを処理しきれなかった。
残り5枚になったところで、夕食の時間になってしまった。
「あの、もしできれば……持ち帰ってもいいですか?」
「別に重要なものではないので構いませんが。紛失だけはしないように」
「ありがとうございます。今日もお世話になりました」
律儀に頭を下げて、部屋から出ていく結衣。
「……変な人間ですね」
立場からすれば結衣の方が上だというのに、いちいちお礼を言ったり謝ったり。
魔族からすれば、考えられないことだ。
セヴランは、しばらく結衣が出ていった扉を見た後、すぐに残りの仕事に取り掛かった。
「ノクス、今日はごめんね」
「構わない。想定内だ」
きっとこちらに気を遣って時間を合わせてくれているのに、ついお昼の時間を忘れてしまった。
「だが、くれぐれも無理だけはするなよ」
「ノクスじゃあるまいし」
「いや、前にも言っただろう。お前の大丈夫は当てにならないと」
「ひどいなぁ」
「だから遠慮せずに、無理だと思ったらすぐ相談しろ」
「うん。頼りにしてる」
夕食を終えて戻ると、契約印を更新すると言ってノクスが部屋に入ってきた。
(勢いで好きだと言ってしまってから、妙に意識してしまう)
向こうにいた時も定期的にやっていたのに、その時よりずっと緊張する。
手にかかるノクスの息。
触れている手の体温。
実際の時間はすぐのはずなのに、体感時間がやけに長く感じた。
無事に更新された契約印を確認して、帳簿の内容も確認して——。
不意に、ノクスが視線をテーブルの上に向けた。
「あれは今日処理した書類か?」
「あと少しだったんだけど、最後の何枚かできなくて。文字の勉強ついでにやろうかなって」
「レティシア」
ノクスが、壁際に控えていたレティシアに声をかけた。
「結衣がしっかり眠るよう、見張っておくように」
「ちょっと!?」
「畏まりました」
「レティシアまで!」
部屋から出る間際、ノクスが振り返って念を押す。
「努力するのは結衣の良いところだが、休むことも重要だ」
「……分かってる」
ノクスがいなくなり、結衣は小さくため息をついた。
「もう……ノクスってちょっと過保護なのよ」
「それだけ、ユイ様を大切に思われている証拠ではないでしょうか」
「……っ!?」
小さく笑ったレティシアに、結衣は顔を赤くした。
夜も大分更けた頃。
ようやく仕事に一区切りのついたセヴランが、冷めてしまったカップを傾けていた。
コンコン。
(こんな時間に一体誰が……)
「セヴラン様。レティシアです」
「入りなさい」
「失礼します」
入ってきたのは、結衣の専属メイドになったレティシアだった。
その手には、紙の束が握られている。
「ユイ様が仕上げられた、残りの書類になります」
「……まさか、持ち帰ってやっていたと?」
「勉強になるから、と」
「……」
セヴランは、紙の束を受け取った。
一枚めくる。二枚。三枚。
(……丁寧だ)
ゆっくりとした字だが、一つ一つが丁寧に書かれている。数字の配置も、昨日教えた順番通りだ。
(根性だけは、認めていいかもしれない)
むしろ、仕事をこなそうとする姿勢は、ノルティアやガルドたち以上だ。
(あの二人は締め切りも守らないし、書類をどこかに紛失する)
「……ご苦労でした、レティシア」
「はい」
「ユイ様にも伝えなさい。明日、続きがあると」
「……来るつもりなら、ですが」
レティシアが、深く頭を下げた。
「かしこまりました」
扉が閉まる。
セヴランは、もう一度書類に目を落とした。
(変な人間だ)
でも——悪くない、とも思った。




