第39話 レティシアから見た結衣
結局、昼間の手伝いは書類を分けるだけで終わってしまった。
そして、浮き彫りになった課題が一つ。
「文字覚えないと書類すら読めない…!」
ノクスに相談に行くと、すぐに子供向けの絵本のようなものを渡された。
「やはり、文字は自力で取得するしかないようだな」
ノクス曰く、共通言語を普及させた後、文字の統一も行ったらしい。
単語は決まった文字が使われていて、それを繋げるだけの簡単な構造だとノクスは言っていたけど…
「ユイ様、こちらは売掛金です。買掛金ではございません」
「〜っ!」
見たことも聞いたこともないような文字に、今勉強しているのは書類に載っているようなちょっと難しい言葉ばかり。
最初は子供向けの絵本を見ていたけど、日常で使われる簡単な単語が多かった。
しばらく部屋で本と向き合っていると、ノクスは分厚い一冊の本を持ってきた。
「セヴランの書類を扱うなら、この本の単語を丸暗記した方が早い」
簡単だろ?そう言って渡された本を見ながら呆然としたのは何時間前のことだっけ。
(丸暗記が簡単とか!ノクスは簡単かもしれないけど!)
今はレティシアについてもらって、読みと書き取りを交互に繰り返している。
1ページを読み進めるのに、とても時間がかかる。
(初日から心が折れそう…)
思わず机の上に突っ伏した結衣を、レティシアは静かに見ていた。
レティシアはもともと吸血鬼の貴族の娘だった。
権力争いに負け、陥れられ、家は没落。
両親は平民に成り下がることに最後まで抵抗し、貴族としていられないのならと自らの命を断った。
世界樹よりも高いプライドが、生き恥を晒すことを許さなかったのだ。
毒杯を煽って倒れた両親。
その側に、幼い私は死ぬことが怖くて毒杯を持ったまま動けなかった。
呆然と、血を吐いて冷たくなった両親を見つめていると、家財の何もかもを奪われた屋敷の扉が突然開いた。
入ってきたのは、白よりも白い、吸血鬼の中では至高とされる色を持つ、お方。
魔王幹部が一人、セヴラン様だった。
セヴランはことの成り行きを、倒れているレティシアの両親を見て把握したようだった。
「あなたはどうしたいのですか?」
「…。」
何か言わなくてはと思うのに、喉がカラカラになって声が出ない。
「そこの馬鹿と同じように死にたいのですか?それなら早く、その盃を飲み干せばいい」
嫌だ、私は死にたくない。
「…だ」
「なんです?聞こえません」
「嫌だ!死にたくない!」
やっと出た声は思いの外大きくて、発した自分が一番驚いていた。
セヴランが、ツカツカと足音を響かせてレティシアの前にしゃがみ込んだ。
綺麗な鮮血の色の瞳が、レティシアを値踏みするように細められる。
「ならば、生きるためにどんな手段も厭わないと誓いなさい。平民に成り下がろうと、泥水をすすることになっても」
「わ、たし…生きたい。死にたくない」
ポロポロと泣き出したレティシアの頭に、セヴランはそっと手を置いた。
「まだお前は子供です。己の身を守れるようになるまでは、私の庇護下に置きましょう」
そうして、セヴランの屋敷で働き始めた。
最初はただひたすら必死に。
けれど、いつの間にかもう一度あの綺麗な瞳に自分を写して欲しくて、ただただ働いた。
たとえあの方が覚えていなくとも、いつか私を見てくれるその日まで。
魔王城で働くようになったのも、あの方の役に立ちたいと願ったから。
それがほんの気まぐれであったとしても、セヴラン様からかけられた言葉に、どれほど胸が踊ったか。
だから、たとえ今あの方の側にいられなくても、自らの使命を全うするために、今はユイ様のサポートを全力でする。
少しだけ過去に想いを馳せていたレティシアの思考が戻ったのは、扉をノックする音が聞こえたからだ。
「どうぞ」
難しい文字に唸りながら言う結衣の部屋の扉が開いて、ノクスが入ってくる。
「順調か?」
「ちょっと頭パンクしそう…」
近づいてきたノクスに、レティシアはそっと後ろに下がって壁と化す。
「参考になると思って、違うものを持ってきた。こちらの方が、分かりやすいと思ってな」
今見ているものよりも、少し薄めの本だ。
「こちらは専門用語で固めているから、最初はこちらを読んだ方がいいだろう」
そっと渡された本。
けれど、結衣のテンションは下がりっぱなしだ。
ノクスが、結衣の頭を宥めるように撫でる。
「大丈夫だ。最初は少しずつでいい。お前なら出来ると、私は確信している」
「…うん」
下を向いていて分からないが、結衣の耳が少し赤くなっていた。
「頼んだぞ、レティシア」
「はっ」
この国の長たる魔王陛下に名前を呼ばれるなど、実に恐れ多い。
ノクスがいなくなった部屋で、結衣が少しだけ頬を上気させながら言う。
「…もうちょっと、頑張ってみようかな」
小さく呟いた結衣に、レティシアは思った。
(あぁ、この方もきっと私と同じなのね)
「レティシア、もう少し教えてくれる?」
「ユイ様のお心のままに」
頭を下げたレティシアの口角が、僅かに上がっていたことなど結衣は気付いていなかった。




