第35話 何も言わない優しさ
夜、雨が窓を叩きつける音が響いていた。
遠くの方で、雷鳴も聞こえる。
普段だったら気にしないけれど、時折光る稲妻が部屋の中に影を作るたびに、結衣の肩がわずかに強張った。
(ノクスの部屋、覚えてるかわからないけど……)
今は部屋にメイドもいない。
そっと扉を開いて廊下の先を確認すると、ぼんやりと浮かび上がる照明の灯りに照らされて、長く続く廊下が見えた。
一度扉を閉めて、ソファに置いてあるショールを肩にかける。
外に出た。
昼間は薄暗くても歩くのに苦労はしなかったけれど、真っ暗な夜はぼんやりとした灯りだけが頼りだ。
記憶をたどって何度か廊下を曲がると、重厚な扉が目に入った。
結衣は、安心したように少しだけ息を吐いた。
ノックしようと右手を持ち上げて——そこで、体がぴたりと止まる。
(ど、どうしよう……なんとなく不安で来ちゃったけど)
やっぱり戻ろうか。
でも、後ろを振り返ると、来た時よりも暗く感じる廊下が続いていた。
戻りたいのに、戻れない。
(子供じゃないし……ちょっと怖かったから来た、なんて言ったら呆れられるかな)
悩んで、そのまま立ちすくんでいると。
ガチャリ。
扉が、開いた。
「わっ!?」
急に開いた扉に、声が出た。
顔を覗かせたのは、ノクスだった。
「どうした。入るなら入れ」
「う、うん……」
部屋の中に入ると、机の上に書類が広げられていた。
まだ仕事をしていたらしい。
「眠れなかったのか」
「……うん。ちょっと、ね」
正直に言うと、ノクスは特に何も言わなかった。
呆れた様子も、怒った様子も、ない。
ただ、椅子を一つ引いて、机の横に置いた。
「座っていろ」
「……いいの?」
「構わない」
結衣は、そっと椅子に腰を下ろした。
ノクスは、また書類に視線を戻す。
広げられた書類に目を落とすと、見慣れない文字が並んでいる。
「ずっと仕事してたの?」
「あぁ。資源の乏しい魔族領では、先々の計画がとても重要だ。だから、出来ることは早めに手を回しておかなければならない」
「でも、ノクス体調がまだ戻ってないんでしょう?」
帳簿には未だノクスの状態は見られない。
だから、どれだけ無理しているのかは見た目からは判断がつかない。
「確かに…万全ではないが、最初に比べればずっといい」
ノクスがにやりと笑う。
「お前の家の米を食べれれば、あっという間に回復するがな」
「残念でした。玄米は出せても精米しなきゃ食べれないんだもん」
炊飯器はあるし、玄米も出せる。けれど、玄米のまま炊飯器では炊くことができない。
「いずれ精米出来るような魔術でも考えてみるか」
「えっ!?そんなこと出来るの?」
思わず身を乗り出した結衣に、ノクスは小さく笑う。
「一粒一粒が小さすぎるし、均一に出来るようになるには時間がかかりそうだがな」
「出来るようになったら、お兄ちゃんに見てもらわないとね」
「それは大変だ。豊を納得させられるレベルまでには相当な技術が必要だぞ」
お互いに顔を見合わせると、自然と笑みが溢れる。
まるで米屋にいた頃のように、なんでもないやりとり。それが結衣にとってはたまらなく嬉しかった。
「やっといつものお前らしくなってきた」
「…え?」
「ここは向こうにいた時よりも勝手が違いすぎるだろう」
ノクスは続ける。
「空気も、環境も、食べ物も、何もかも違う。向こうでは眩しいほどの日の光を浴びられるが、ここではそうもいかない」
「なるべく窓が大きくて日の当たる部屋を選んだが…」
「…!」
この時、結衣は初めて知った。
ノクスの部屋からも、アイルやキリがいた部屋からも遠く離れていて寂しいと思っていたけれど、そんな理由があったなんて。
(本当に…ノクスは優しい)
途端に胸に溢れるのは温かい、何か。
「快適とはいかないだろうが、出来る限りのことはする。だから、何かあれば私を頼れ」
私は魔王だからな、そう言って笑うノクスに、結衣は小さく、けれどしっかり頷いた。
「そうだ。試したいことがあった」
「…?」
ノクスはそう言うと、椅子から立ち上がって結衣のすぐ横に片膝をついた。
膝の上にあった結衣の手を持ち上げると、結衣を下から見上げる。
「契約印を入れてもいいか?」
「…うん」
そっとノクスの口元に持ち上げられた右手に吐息が落ちる。
「いついかなる時も、稲宮結衣に我が力の全てを捧げることを誓う。我が名は魔王ノクス。………結衣、私の名を…呼んでくれるか?」
いつか初めて契約した時と同じ光景。
ただ一つ違うのは、ノクスの瞳が少しだけ不安そうに揺れていることだ。
「ノクス…」
静かな光と共に、右手に浮かび上がる不思議な模様。
もはや見慣れていた模様が右手に戻ったことに、結衣は人知れずため息を漏らした。
ノクスは浮かび上がった契約印をしばし見つめた後、結衣の手を取って立ち上がらせた。
「帳簿の表示が変わったか確認しよう。帳簿はお前の部屋だな?」
「そうだけど…」
ノクスが扉を開いた先は暗い廊下。
遠くで鳴っていた雷が、だいぶ近くなっていた。
「結衣?」
思わず足がすくんでしまった結衣に、ノクスが振り返って声をかける。
「今行く!」
ノクスを先頭にしているから、そこまで不安ではないけれど…
その時。
廊下が一瞬真っ白になった気がして、間髪入れずに大きな雷鳴が響いた。
「…っ!」
思わず耳を塞ぐけれど、鼓膜がビリビリしている気がする。
「安心しろ。城には防護魔術が施されているから、雷が直撃することはない」
「う、うん」
また歩き出したノクスに、小走りで近づいてそっと服の端を掴んだ。
ぴくり、と。
一瞬ノクスの動きが止まった気がしたけれど、そのまま歩き続けるノクスに部屋に辿り着くまで結衣は手を離さなかった。




