第30話 魔王を治める人
一度部屋に戻った後、例の帳簿を持って再び部屋を出た。
「案内いたします」
クロードが先導に立って、廊下を歩き始める。
長い、長い廊下だった。
石造りの壁。高い天井。窓から差し込む光は、魔族領特有の薄暗さで、日が当たっているはずなのにどこか翳っている。
所々に灯された蝋燭が、揺れるたびに影を踊らせた。
(やっぱり、怖いな)
歩きながら、思う。
昼間でもこの雰囲気だ。夜中に一人で歩けと言われても、ちょっと遠慮したい。
それでも、城の広さは圧倒的で、廊下を曲がるたびに新しい景色が現れる。
どこかの扉の向こうから低い声が聞こえたり、甲冑を着た衛兵がこちらを一瞥したり。全員が、何かを確かめるように結衣を見る。
(魔王城に人間がいるのって、やっぱり珍しいんだろうな)
思わず隠れたくなる衝動を堪えながら、クロードの背中についていく。
やがて、重厚な扉の前に辿り着いた。
クロードが、静かにノックをする。
返事が、なかった。
「……?」
もう一度、ノックをする。
やはり、返事がない。
「失礼いたします」
クロードが、躊躇うように扉を開ける。半分ほど開いたところで、ぴたりと手が止まった。
後ろから、結衣も覗き込む。
執務室のような部屋の奥。テーブルの前の椅子に深く座ったまま、目を閉じているノクスの姿があった。
「……寝てる?」
思わず呟くと、クロードが小声で続けた。
「……まだ本調子ではないのです。それなのに……」
クロードの頭に浮かぶのは、あの光景だ。
空を覆い尽くした暗雲。轟いた雷鳴。理性という言葉で出来たようなお方が、自分の命すら顧みずに魔力を放出してしまった、あの瞬間。
(全くもって、魔王様らしくない)
そう思いながらも——あの時のノクスの顔を思い出すと、どこか言葉が続かなかった。
その時、ノクスの瞼がかすかに揺れた。
真紅の瞳が、ゆっくりと開く。
「……すまない。入っていいぞ」
「失礼いたします」
クロードが、静かに入室する。後に続いて、結衣も部屋の中へ入った。
ノクスの顔を見た瞬間、胸がざわついた。
疲れている。隠しているけど、分かる。目の下にうっすらと疲弊の色があって、いつもの張り詰めた鋭さが、今は少しだけ鈍い。
「それが、例の帳簿か」
ノクスの視線が、黒い表紙に注がれる。
でも結衣は、帳簿を握りしめたまま、動こうとしなかった。
「結衣?」
「……ノクス、休まなくていいの?」
じっと、ノクスを見つめる。
「まだ片付けたい仕事がある」
思わずクロードの方を見ると、クロードは小さくため息をこぼした。
「いえ。急ぎの案件は済まされています。……言ってもおやめにならないのです」
まるで駄々をこねる子供にため息をつくような口調だった。
ノクスが、眉を寄せる。
「平気だと言っている」
「いいえ、本来であればもっと休まれるべきです」
「そんなに軟弱ではない」
(やっぱり、ノクスって仕事中毒だ……)
米屋にいた時も、遅くまでよく作業をしていた。三日徹夜は平気だ、くらいのことを言っていた気もする。あの頃から、変わっていない。
結衣は、帳簿を持つ手に、ますます力を込めた。
「やっぱり、また明日にしよう。ノクス」
ノクスが、まるで理解できないとばかりに目を開いた。
「何を言っている、結衣。その帳簿は急ぎ解析と検証を——」
「だめ」
「……少しだけでも」
「だめ」
おもちゃを取られた子供のように言い募るノクス。
自分の知らない魔術がそこにあるかもしれない、というノクスなりの好奇心なんだろうけれど——
「しっかり休んでからじゃないと、だめ」
小さく唸っているノクスの側まで、結衣は歩み寄った。
それから、クロードの方に視線を向ける。
「ノクスの寝室って、どこですか?」
「あ、はい。あちらの奥の扉の——」
言い終わる前に、結衣はノクスの腕を取って歩き出した。
「結衣!」
「休まなきゃ見せないから」
「なんだと!?」
扉を開けた結衣は、そのままノクスの背中をぐいぐいと押す。部屋の中に押し込んで、扉を閉めた。
「おい、結衣!」
力任せに開けようとするノクスに対して、結衣はドアノブを両手で掴んだまま、ぽつりと言った。
「ノクスの体が心配だから……お願い、休んで」
「……」
ノクスが、黙った。
扉越しに、気配が止まる。
しばらくして。
小さな咳払いが、聞こえてきた。
「……仮眠をとる。それでいいか?」
「……うん」
力が、ドアノブから抜けた。
後ろで、クロードが息を呑む気配がした。
(あの魔王様を……治めた……!?)
百年仕えてきて、初めて見た光景だった。
あの魔王様が、誰かの言葉で——折れた。
クロードは、しばらくそこに立ったまま動けなかった。
やがて、小さく呟く。
「……やはり、ただの雇用主ではないと思うのですが」
誰にも聞こえないくらいの、声で。
部屋に戻ったアイルは、窓の外を眺めているキリの背中を見た。
「結衣ちゃん、ドレス可愛かったね」
「……あぁ」
「これからどうしようか」
「……あぁ」
「……」
アイルは、内心でため息をついた。
返事はしている。でも、明らかに上の空だ。座ったままぼうっとしていて、視線がどこにも定まっていない。
(これは、ちょっと離れた方がいいかもしれないな)
「ちょっと僕、出てくるね」
「……あぁ」
返事を聞いてから、アイルは静かに部屋を出た。
魔王に取り次いでもらって、執務室の扉を開けると、ノクスはデスクの前に座っていた。
いつもより、どこかすっきりした顔をしている。
「どうした」
「ちょっと、今後の相談なんだけど」
アイルは、椅子を引いて座った。
「聞こう」
「豊とエレンも、転移に巻き込まれた可能性がある」
続きを促すように、ノクスは頷いた。
「ここに来るまでに、噂で聞いたんだ。聖人様が現れたって」
「聖人…?」
まるで初めて聞いたとでも言うようにノクスは眉を寄せる。
「勇者と一緒に現れたって言うから、豊とエレンの可能性が高い」
だから、とアイルは続ける。
「人間領に、キリと二人で確認しに行こうと思う」
ノクスが、わずかに眉を動かした。
「もし豊じゃなかったとしても、一度様子は見た方がいいと思って」
「……そうだな」
ノクスは、少しの間黙った。それから、静かに言った。
「飛龍を貸そう」
「本当に?」
「クロードから聞いている。エルフの里を再び通るのは、難しいだろう。空路であれば問題ない」
「助かる」
アイルが、立ち上がりかけて——少しだけ止まった。
「…結衣ちゃんのこと、ちゃんと見てあげてね」
「……当たり前だ。何を言っている」
「そうじゃなくて」
「分かってるとは思うけど、結衣ちゃんはああ見えて、自信がないから」
アイルは、柔らかく、でもはっきりと言った。
「しっかり向き合ってあげてね」
ノクスは、答えなかった。
アイルは、まるで結衣とノクスの間に何があったかを見通すような言い方だ。
ノクスの視線が、わずかに揺れた。
「じゃあ、またね」
アイルは、軽く手を振って部屋を出た。
翌朝。
朝食の席で、アイルとキリから告げられた。
「人間領に行こうと思って」
「え……」
結衣は、スプーンを止めた。
「ほら、聖人様の話、あったでしょ」
アイルが、穏やかに続ける。
「豊じゃなかったとしても、一度様子は見た方がいいと思って。エレンもいるし」
「でも……エルフの里は通れないんじゃ」
半ば逃げ出してきた身だ。もう一度通るなんて、無理だろう。
「そこは大丈夫」
アイルが、にこっと笑った。
「そこの魔王様が、飛龍を貸してくれるって言うから」
「飛龍……」
結衣は、思わずノクスを見た。
「移動手段として、妥当な判断だ」
ノクスが、いつも通りの顔で言う。
「……そっか」
そうか、とは思う。豊のことも、エレンのことも、気になっていた。
でも——アイルとキリがいなくなる、ということが、じわりと胸に重くなる。
「二人、いつ出発するの」
「準備が出来次第だから…明日くらいには」
「……そっか」
結衣は、スープを一口飲んだ。
キリは、何も言わなかった。ただ、静かに食事を続けていた。




