第29話 魔王にも分からないこと
呼び出したメイドに結衣の手当をするよう伝える。
『一緒に考えよ?』
『私たちが、どうしたいのか』
結衣はああ言っていたが…。
静寂が訪れる執務室の中、ノクスはただ呆然としていた。
「……すき」
ぽつり。
誰もいない空間で、反芻する。
「……すき、とは」
理解が出来ない。
結衣は自分を「大切」と言った。
それは理解できる。
守る対象。
契約者。
協力者。
経営のパートナー。
だが。
「契約がなくても助ける」
それは、合理性がない。
「居心地がいい」
抽象的すぎる。
「いなくなったら嫌だ」
……嫌?
ノクスの思考が回り出す。
好意。
信頼。
依存。
責任。
独占欲。
どれにも当てはまるのに、どれにも収まりきらない。
「……」
経営脳が分析を始める。
この関係のリスク。
権力差。
依存構造。
意思決定の歪み。
けれど
「……」
胸の奥が、じくじくと熱い。
理屈が追いつかない。
「私は、結衣を好ましいと思っている」
それは事実。
「だが、それは――」
言葉が続かない。
結衣が言った「すき」は、
それより深い。
もっと、無防備で。
もっと、無計画で。
もっと、愚かなもの。
「……愚か」
なのに。
なぜだ。
否定できない。
胸が締まる。
その頃の結衣は、案内された部屋で傷口を手当されていた。
(い、勢いで好きって言っちゃったけど…)
今更ながらに沸き起こる恥ずかしさ。そして、少しの不安。
(でも、ノクスには恋人がいるって話…)
ノクスが大切に想ってくれているのは分かる。けれど、それが結衣の気持ちと同列のものなのかは分からないし、結衣自身も自信を持ってノクスが”好き”なのか断言しきれない部分がある。
そもそも本当にノクスの想い人がいるというなら、結衣はとんだお邪魔虫だ。
一人、ポツンとソファに座っていると、段々と思考が不安に襲われる。
知っている人はノクスだけ。明らかに城と思われる部屋の中。立派な部屋で、頼れる人は他に誰もいない。
「これから、どうなるんだろう…」
ノクスに会いに来るために、ここまで来た。けれど、その先のことは全く考えていなかった。
「そもそも、日本に帰れるのかな…」
このままずっと、この世界にいるのだろうか。でも、帰れるとしても、そこにはもうノクスもアイルもキリもエレンもいない。
みんなが来る前の、兄と二人だけの米屋。
そんな未来を想像するのが怖くて、結衣はそっと目を閉じた。
クロードは、つきたくなるため息を必死に抑えて扉の前に立った。
人間と間近で話すのは初めてのことだ。
ましてや——魔王様の大切な"雇用主"。
本当にただの雇用主なのか。
あんなにも感情を顕わにする魔王様など、百年仕えてきて未だかつて見たことがない。
あの殺気。あの雷。そして——傷一つで全てが吹き飛んだあの瞬間。
(どう考えても、ただの雇用主ではないと思うのですが……)
エルフ二人は丁重に客間に案内した。後は、この扉の向こうにいる方に会わなければならない。
慎重に、扉を叩く。
中から、少し戸惑ったような、弱々しい声が聞こえた。
「……はい」
「失礼いたします」
扉を開けると、ソファの上に小さく座った女性がいた。
栗色の髪。疲れの色が残る顔。
でも——目が合った瞬間、まっすぐにこちらを見てきた。
(これが……)
クロードは、内心で息を呑んだ。
見た目は、ごく普通の人間だ。魔力の気配も、特別なものは感じない。なのに——何故か、目が離せない。
「あの、えっと……」
女性が、少し不安そうに口を開く。
クロードは、素早く姿勢を正した。
「申し遅れました。私、魔王様の側近を務めております、クロードと申します」
「クロード……さん?」
「はい。本日よりご滞在の間、身の回りのことは何なりとお申し付けください」
女性が、きょとんとした顔をした。
「えっと……そんな、大げさな……」
「大げさではございません」
クロードは、静かに、しかしはっきりと言った。
「魔王様が直々に客人として迎えるようにとのご指示でございます」
「……ノクスが」
「はい」
女性——結衣、が少しだけ目を伏せた。
「失礼ながら、イナミヤ ユイ様、とお呼びしてよろしいでしょうか」
「結衣で大丈夫ですよ」
「……では、ユイ様と」
「様もいらないんですけど」
「……」
クロードは、一瞬だけ止まった。
魔王城に来た客人に、様をつけずに呼んだことは、過去に一度もない。
「申し訳ございませんが、魔王様の大切なお客様にそのような呼び方は出来かねます」
「…そう、ですか」
少し思うところがあるようだが、とりあえず納得はしてもらえたようだ。
「では改めて。まず、お召し替えはいかがでしょうか。旅のお召し物のまま、お疲れかと存じます」
「あ……そうですね。ありがとうございます」
「サイズ等、確認させていただいてもよろしいでしょうか。この城に人間の女性向けのお召し物がございませんので、急ぎ仕立て直しを」
「そんな、急がなくて大丈夫ですよ!」
「いいえ」
きっぱりと、クロードは言った。
「急ぎます」
結衣が、少しだけ驚いた顔をした。
「……魔王様が、あの様子でございますので」
思わず、本音が漏れた。
クロードは咳払いをひとつ。
「他に、何かご不足のものはございますか」
「えっと……少しだけ、何か食べたくて…」
「すぐにご用意いたします。お食事のご都合はございますか?魔族領の食材は人間の方には合わない場合がございます」
「あ、それは大丈夫です。魔族領に来てから、全然平気だったので」
「……そうでございますか」
それも、クロードの中では引っかかった。
普通の人間であれば、魔族領の食事は体に障る。
でも、この方は平気だと言う。
(やはり、ただ者ではない……)
「他に何かございましたら、すぐにお申し付けください。扉の外に常に控えております」
「え、ずっと外に立ってるんですか?」
「はい」
「それは……申し訳ないので、大丈夫ですよ」
「いいえ」
「いや、でも……」
「大丈夫ではございません」
穏やかに、しかし一切引かずに言うと、結衣がぱちぱちと瞬きをした。
「……クロードさん、ちょっと頑固ですね」
「魔王様譲りだと、よく言われます」
少しの沈黙。
それから、結衣がくすっと笑った。
「……ノクスと、長いんですね」
「百年ほどになります」
「百年……」
結衣の目が、少しだけ遠くなった。
用意されたドレスは、深い紺色だった。
裾に細かな刺繍が施されていて、光の当たり方によって模様が浮かび上がる。
素材は柔らかくて軽い。エルフの里で着せられたものとはまた違う、落ち着いた色味だった。
「……似合っておりますよ」
控えていたメイドが、遠慮がちに言う。
「そう、ですか……」
鏡の前に立つと、自分じゃないみたいだった。
首元が少し開いていて、袖のラインが細くて、裾がふわりと広がっている。
こんな服、現代では着たことがない。米屋で働いていた時は、動きやすさしか考えていなかった。
(なんか……お姫様みたいだ)
顔が、じわりと赤くなる。
「あの、もう少し地味なやつはないですか……」
「こちらが一番、落ち着いた色でございます」
「……そうですか」
ため息をついてから、もう一度鏡を見た。
(……でも、ちょっと嬉しいかも)
自分でそう思ったことに、また顔が赤くなった。
昼食の席に呼ばれたのは、それから少ししてのことだった。
案内されたのは、窓の大きな部屋だった。長いテーブルに、すでに三人が座っていた。
アイルとキリ——そして、上座に、ノクスがいた。
「あ……」
思わず、足が止まる。
米屋にいた時も、人型になることはあった。
でも——今のノクスは、少し違った。
深い黒の衣。肩から流れる布地に、金の縁取り。腰には細い帯のようなもの。首元に、深い赤い宝石。
(あの時より……魔王っぽい)
炊飯器の中にいた小さな姿も、人型になった時も——でも、今のノクスは、全部が違う。
現代の米屋で見ていた時は、なんとなく「綺麗な人だな」という印象だった。
でも今は——この城に、この服に、完全に馴染んでいる。
ここが、ノクスの本当の場所なのだと、改めて感じた。
と——同時に。
(……さっき、好きって言ったんだった)
じわりと、顔に熱が集まる。
ノクスと目が合いそうになって、咄嗟に視線を逸らした。
「……何を突っ立っている」
ノクスが、静かに言った。
「あ、ごめん」
慌てて椅子に座る。なるべくノクスの方を見ないようにしながら、アイルとキリの顔を確認する。
二人とも、少しだけほっとしたような顔をしていた。
「結衣ちゃん、そのドレス可愛いね」
「……言わないで」
「えー、似合ってるのに」
「言わないでって言ってるのに」
顔が、また赤くなる。
「よく似合っているぞ」
ノクスが、静かに言った。
「……っ、ありがとう」
反射的に答えてから、しまった、と思った。
妙な間が、生まれた。
ノクスも、何かを言いかけて——止まった。
テーブルの上に、静寂が漂う。
アイルが、料理に目を落としながら口元をそっと押さえていた。
キリは、何事もなかったように食事を始めていた。
(気まずい……!)
結衣は、運ばれてきた料理に視線を固定した。
肉を中心とした料理が多いけれど、丁寧に盛り付けられていて、香草の匂いが食欲をそそる。
「い、いただきます」
少しだけ上ずった声で言うと。
ノクスが、懐かしいというように、少しだけ目を細めた。
その表情に、また胸がざわつく。
(見ないようにしなきゃ)
一口食べると、旨味がじわりと広がった。魔族領の食材は濃くて深い味がする。でも、嫌いじゃない。
「……それで、お前たちはどうやってここへ?」
ノクスが、静かに聞いた。
(話を変えてくれた)
結衣は、内心で少しだけほっとした。
「えっと……目が覚めた時、アイルとキリと一緒にいて」
ポツリポツリと、話し始める。目が覚めた時に二人と一緒にいたこと。盗賊に襲われたこと。黒い帳簿の力に気づいたこと。そしてノクスの状態を帳簿で知って、魔族領に向かうことを決めたこと。
話しながら、少しずつ、いつもの調子が戻ってくる気がした。
中でもノクスの関心を引いたのは、帳簿と成米の話だった。
「……成米、とは」
「手から、玄米が出るの」
「最初は低品質だったんだけど、使い続けてたら少しずつ品質が上がってきて」
「道中ずっと呟いてたのか」
「練習もあったし……馬にあげてたら喜んでくれて」
「帳簿に成米か」
ノクスが、腕を組みながら言った。
すっかり、いつもの分析モードに入っている。
「聞いたことも、見たこともない魔術だな」
「そもそも魔術と言っていい代物なのかも分からない」
キリの言葉に、アイルが深く頷く。
「日本語で書かれてるしね」
「それに仕訳とか分別とか……私が知ってる言葉で動くみたいで」
「ほう」
ノクスが、身を乗り出した。
その目が、いつもの鋭い分析の光を取り戻している。
(あ)
結衣は、思った。
この顔だ。
帳簿を前にして、米屋の数字を睨んでいた時の、あの顔。
「あとで見せろ」
「はい」
テーブルの上に、いつもの空気が戻ってくる。
アイルが料理を食べながら、キリが静かにお茶を飲みながら——それぞれがそこにいる。
(あの頃みたいだ)
窓の外は薄暗い魔族領の空だけど、このテーブルの上だけは、米屋の食卓みたいに温かかった。
はい、恋愛ポンコツ魔王です笑
仕事は出来る、勉強も出来る、能力値は高いけど、自分の感情は処理できない。
理詰めで考えるからこそ、単純な好意そのものの意味が分からない。
さぁ、ノクスはいつ気づけるのか…笑
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