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第28話 結衣の答え



アイルの術で吹き飛ばされた黒ずくめの人影が、壁にしたたかに体を打ち付けた。

鈍い音が響く。

でも——それだけだった。


「……しぶとい」


アイルが、呟く。

その隙に、アイルが結衣の手を取って走り出した。


「ど、どうなってるの!?」

「説明は後!」


答える時間も惜しいとばかりに、アイルは足を緩めない。

宿の廊下を駆け抜けて、外へと飛び出す。

ちょうど走り込んできたのは、服がボロボロになったキリだった。


「間に合ったか!」

「うん、すぐ行こう!」


何が起きているのか、よく分からないまま走り出す。

騒ぎに気づいた街の人々が、遠目でこちらの様子を伺っていた。


「なぁ、あれって……」

「人間じゃないか?」


誰かがポツリと漏らした言葉に、ざわざわとした空気が広がっていく。


「くそっ……今すぐ出発だ」


街の外へと足を向けた三人の前に、さっきの黒ずくめの人影が立ちはだかった。

アイルに吹き飛ばされたはずの相手だ。

背後にも、もう一人の人影が迫ってくる。

完全に、挟まれた。


「結衣は隙を見て街の外へ走れ!」

「でも……!」

「大丈夫だ。すぐに追いつく」


いつものような、落ち着いた声。

安心させるように、言い聞かせるように——キリとアイルが言う。


「さぁ、行って。結衣ちゃん」


ポン、と背中を優しく押された。


一歩、踏み出す。

二歩、三歩。

足が動き始めると、背後でキリが魔術を展開させる轟音が響いた。

振り返りたい気持ちを堪えながら走る。

でも——数歩進んだところで、どうしても足が止まってしまった。


振り返ると。

二人が、黒ずくめの人影と激しくぶつかり合っていた。


(二人は強い……だから、きっと大丈夫)


そう思って、また前を向こうとした、その瞬間。

結衣の視界の端に、奥からじっとこちらを見ている四人目の人影が映った。

まだ、アイルもキリも気づいていない。


「——っ」


四人目の人影が、何かの術を放った。

光の筋が、アイルに向かって飛んでいく。


「アイル!」


声が出た。

アイルの足元を術が捉えた瞬間、ぴたりと動きが止まる。術で拘束されたのだ。

異変に気づいたキリが、応戦しながらアイルへ向かって手を伸ばそうとした。

その瞬間を狙って、もう一人の人影がキリへと向かって疾走する。


「……っ!」


片方の手でアイルの防御壁を展開しながら、もう片方の手で向かってくる相手の攻撃を凌ぐ。

二手に分かれた意識。

その隙間から——キリへと向かう攻撃が結衣の目に映った。

速い。キリが防ぐ前に届く。

頭より先に、体が動いていた。


「仕訳!」


ガツン、と鈍い音がして、キリを狙っていた攻撃の軌道が逸れた。

キリの視線が、一瞬こちらを向いた。

帳簿を握りしめた結衣が、そこにいた。

今にも逃げ出してしまいそうな足を懸命に踏みとどめて、こちらを見据えている。


(今だ)


アイルが拘束術から脱出したのを確認した瞬間、キリは両腕を同時に動かした。

二つの攻撃魔術が、それぞれの標的へと飛んでいく。

直撃した人影が、二人同時に吹き飛んだ。

しかし——そのうちの一人が、すぐに起き上がった。

キリに背を向けて——真っ直ぐ、結衣へ向かって走り出す。


(やはり、狙いは結衣か……!)


「結衣、避けろ!」

「えっと……! 仕訳!」


術を放つ。わずかに相手がよろけるが、勢いは止まらない。

あと数歩。

帳簿を落としてしまった。

拾う時間も、逃げる時間もない。

迫ってくる相手に、結衣は思わず目を閉じた。


ドゴォッ!!


今まで聞いたことのないような重低音が、鼓膜を揺らした。

地面が、振動する。

おそるおそる目を開けると——目の前の地面に、黒ずくめの人影がめり込んでいた。


「結衣! 平気か!?」

「う、うん……」


安心したように覗き込んでくるキリの顔を見て、自分が息を止めていたことに気づいた。

でも——すぐに、視界に入ってきたものがあった。

キリのすぐ後ろ。

大きく刃を振りかざす人影が、迫っていた。


「ダメっ!!」


考えるより先に、体が動いた。

キリの体に両手で飛びついて、横へと押し倒す。

一瞬、人影の手元が狂った。

ピリ、と——頬に熱いものが走る。

ほぼ同時に、結衣とキリが地面に倒れ込んだ。


「いい加減に……しろっ!!」


アイルの怒声と共に、強力な術が炸裂した。

刃を振りかざした人影が、遠くへと吹き飛ばされていく。


「キリ、へばってないで!」

「……そっちこそな!」


肩で息をする二人が、庇うように結衣の前に立った。

頭を振りながら、ふらつきつつも立ち上がる黒ずくめの人影。

三人の足が、一歩——背後へと下がる。

一人は倒れている。残り三人。数の上では、まだ不利だった。


(どうする)


歯を食いしばって、結衣は落としてしまった帳簿を拾い上げた。

逃げることも、戦うこともできない。

でも——ただ見ているだけにはなれなかった。

その時。





ふわり、と。

温かい腕が、結衣を包んだ。


「……っ」


一瞬、体が強張る。でも——すぐに分かった。

よく知っている体温。よく知っている感触。

肩から力が、すっと抜けていく。

振り返らなくても、分かる。

込み上げてくる何かが、結衣の目からすっとこぼれ落ちた。


「……遅いよ」

「……すまない」


ずっと聞きたかった声。ずっと探していた人。

ぽろぽろと、涙が溢れ出す。止めようとしても、止まらない。

体を包む腕に、結衣の涙がポタポタと吸い込まれていく。まるで、ずっと抱えてきた不安を全て吸い取ってしまうとばかりに。


「遅くなった」

「……うん」


何か言いたいのに、言葉がつかえて出てこない。

代わりに出るのは、涙だけだった。全ての感情が、そこに詰まっていた。

右手で涙を拭いながら、振り返る。

そこには——ずっと一緒にいた存在がいた。



「……ノクス」



結衣、名前を呼びかけようとして、ノクスはぴたりと体を止めた。

結衣の頬から、一筋の血が流れ落ちるのを見つめる。

頬に流れる涙と一緒に、赤く滲んだ血が結衣の顎を伝ってこぼれ落ちた。


「これは…」


す、と結衣の頬の傷を確かめるように指を滑らす。


「一体、どういうことだ」


誰がやった?ノクスの視線が、目の前の黒ずくめの人影を見据えるのと、殺気のこもった魔力が溢れるのは同時だった。

一瞬で辺を埋め尽くす暴力的なまでの魔力。

回復しきれていない分、大気に散らばる魔素を吸収し膨張させるのを繰り返し、やがてさっきまで晴れていた空に暗闇が広がっていく。

ノクスの登場で気を緩めていたアイルとキリも、一気に空気が重いものになったことに冷や汗をかく。


(これは…これはかなりマズイ)


誰もその場から逃さないとばかりに纏わりつく暴力的なまでの魔素に、体はおろか指一本動かすことすら出来ない。

上空で集まった真っ暗な雲が、バチバチと音を立てて雷鳴を轟かせる。


「魔王様!鎮まりください!」

クロードが背後で叫んでいるが、関係ない。


「私は聞いている。誰がやった」


雷鳴と共に、近くに雷が落ちる。それにビクリと反応したのは結衣だ。



「ノクス!」


ノクスの腕を掴んで、音に怯えたように肩を縮ませる結衣。

その姿に、ノクスの殺気は一気に霧散した。

途端に、暗く覆われていた空が晴れていく。

その場にいた全員が、息をすることを許されたように深く息を吐いた。


「手当をしなければならない。クロード」

「はっ」

「急ぎ城へ戻る。…そこの二人は、客人として迎え入れろ」

「かしこまりました」


クロードが恭しくノクスに傅き、続いて転移術を展開させる。


「先に行く」

「お心のままに」




眩しい光に包まれて、結衣が目を瞑る。

次に光が消えた時には、目の前は全く見知らぬ建物の中だった。


「ここ、は…?」


あたりを見渡す結衣を、ノクスは無言で抱き上げた。


「の、ノクス!?自分で歩けるから…っ」

「…。」


ノクスは、何も言わない。

軽々と横抱きにされて、ここがどこなのかも分からず、結衣はただ連れて行かれるままだった。

ノクスの表情は、建物の中のほのかな明かりで照らされて窺い知ることが出来ない。

やがて重厚な扉の前に立ったノクスは、そのまま結衣を抱き抱えたまま中へと入った。


重厚感のあるテーブル。クッション性の高いソファ。書類が積まれたデスク。ここは、執務室なのだろうか。

何も言わないノクスに、結衣が段々と不安を覚えた頃。

そっとソファの上に下された。


「ノクス…?」


深く息を吐き出したノクスが、そのまま横に座って結衣を抱きしめた。


「のっ…ノク、す!?」


結衣の顔のすぐそばに、ノクスの顔がある。

顔を見られないように下を向いたまま、額を結衣の肩口に当てた。

急なことに、結衣の心臓は破裂しそうなぐらいに音を鳴らす。

頭が混乱している結衣は、ふとノクスの腕が震えているのに気づいた。


「すまない。しばらくそのままで…」


まるで、いつものような自信たっぷりの魔王ではない。戸惑ったような、何かを恐れるような震える声。

いつもと違う様子のノクスに、結衣の方は少しばかり余裕を取り戻した。


「ノクス…?」


どうしたの、と問いかける代わりに名前を呼べば、ノクスは弱々しく口を開いた。


「こんなこと…初めてだ」

「何が?」


まるで、小さい子に問いかけるような結衣。

ぎゅ、とノクスが握っているのは、結衣の背中の服。

それが迷子の子供みたいに見えた。


「分からないのだ…今まで、私は常に最適解を選んできた」

「うん」

「だが……お前が傷つくのを見た瞬間、何もかも吹き飛んだ」


「守れなかった」

「支えられなかった」

「お前の隣にいられなかった」


言いながら、自分でも驚いていた。

そんなことを口にする自分に。


「……私は、一体何を望んでいるのだ」



結衣は、そっとノクスに身を委ねる。


「…顔、上げて?」

「無理だ」

「どうして?」

「……顔を、見られぬのだ」


声が低い。

でもほんの少しだけ掠れてる。


「お前が……私を、拒むのではないかと」


結衣は、そっと自分の手をノクスの背中に回した。

ビクリと震えたノクスの手が、結衣の服を掴む力を強くした。


「私は、ノクスを拒んだりしないよ」



そして――

両手で、ノクスの顔を包む。

ひやりとした頬。

指先に伝わる、かすかな震え。

ゆっくり、強制的に上を向かせる。

抵抗は、しない。

そして――

目が合う。


そこにいたのは、

深淵の魔王ではない。

統治者でもない。

冷徹な戦略家でもない。

迷子みたいな顔をした男。

ほんのわずかに潤んだ赤い瞳。

感情を処理しきれず、どこに置いていいのか分からない表情。


怒りでもない。

悲しみでもない。

嫉妬でもない。

全部が混ざって、言葉にできなくなった顔。


「私は……」


ノクスの視線が、結衣の頬へ落ちる。

薄い切り傷。

かすり傷だ。

すぐ治る。

命に別状などない。

だが。


「それが、許せなかった」


声が低く震える。



「部下の独断も。私自身も」

拳が無意識に握られている。


「お前がこの世界に来た時、私は動けなかった」

「……」

「一番側にいるべき時に、いなかった」

それが、ずっと刺さっている。


「私は一体どうしたのだ。こんなにも感情が乱れて……」


初めてだ。

怒りが理性を超えたのは。

嫉妬が判断を曇らせたのは。

独占欲が、正義より先に出たのは。


「苦しいのだ」


静かに、そう言う。

魔王が。

苦しい、と。

結衣の指が、頬の傷に触れる。


「ねぇ」


小さく、ためらいながら。


「多分、だけど……」

ノクスの目が揺れる。



「ノクスは、私のこと、大切にしてくれてるんだよね」

「当たり前だ」


ノクスは迷いなく即答する。


「そうでなければ契約など――」

「ううん、そうじゃなくて」



「契約がなくても、きっと助けてくれたと思うの」

それは否定できない。


「私も……契約がなくても、助けに行ってたと思う」

「……それは何故だ」


怖い問い。

だが聞かずにいられない。

結衣の喉が、こくりと鳴る。


「……わ、わたし……」


指先が震える。

でも目は逸らさない。



「ノクスのこと……すき、だから……多分、だけど」


時間が止まる。


「……すき?」

言葉の意味を、噛み砕くように繰り返す。


「多分?」

結衣は思わず慌てた。


「だって分からないもん! 誰かを好きになったことないし!」


顔が赤くなるのが自分でも分かる、でも、逃げない。


「でもね、ノクスの側は、すごく居心地がいいの」

「……」

「守られてる感じがするし、安心するし」

「……」

「いなくなるって考えたら、やだなって思うの」


ノクスの呼吸が、浅くなる。


「だから」


結衣、ぐっと顔を近づける。



「一緒に考えよ?」


「私たちが、どうしたいのか」


結衣が自分で導き出した答え。

一緒に隣に立ってくれるノクスだからこそ伝えられた想い。

現代編からの積み重ねが、やっと花開きました。

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