第26話 噂
人間の街レヴァンと比べて、初めて訪れた魔族の街は、街というより田舎の村のような場所だった。
低い家。広がる田畑。店の数も少なくて、路面も舗装されていない。
フード付きのマントをすっぽりと被り、街に入る前にアイルから渡された顔半分を隠す仮面をつけている。
傍から見れば、かなり怪しい出で立ちだ。でも、ここの住人は誰も気に止めていないようだった。
「人間であることを隠してくれるから」
アイルが、小声で説明してくれた。
「マントと仮面に術を施してある。強力なやつ」
なるほど、と思いながら周囲を見渡す。
街の中には、見た目が人間に見える者がほとんどいなかった。肌の色が違う。全身にふさふさとした毛が生えている者もいれば、鱗状になっている者もいる。角が生えた者。目の色が、人間とは全然違う者。
(すごい)
緊張して早くなる心臓を押さえつつ、アイルとキリの後についていく。
異世界って、世界観が違いすぎる。観光しているというよりも——まるで未知の星に降り立ってしまった宇宙人の気分だった。
休憩のために見つけた宿を経営していたのは、亀のおばあさんだった。
甲羅を背負ったまま、ゆっくりとカウンターの向こうから顔を上げる。しわくちゃの顔に、穏やかな目。
「こんな田舎にエルフとは珍しいねぇ」
「妹に外の世界を見せたくて、旅してるんだ」
アイルが、自然な口調で答えながら結衣の肩を軽く叩いた。
合図だと分かって、小さくお辞儀する。
「ちょっと引っ込み思案でね」
「まぁ、可愛らしいこと」
おばあさんが、目を細めた。
「魔王城を見せてやりたいんだけど、どうやって行くのがいいかな?」
「あら、いいわねぇ」
おばあさんが、棚の奥をごそごそと探り始めた。
「都市は立派だから、きっとびっくりするわよ」
取り出されたのは、古びた紙一枚。地図らしかった。
「ここはちょっと外れてるからねぇ。一つ先の街だったら、乗り合いの馬車が出てるはずよ」
「ありがとう」
「そこから三日も走れば着くかしら……私も最後に使ったのは三十年くらい前だから、今あるかは分からないけれど」
ホホホ、と笑う声が、静かな宿の中に響いた。
「今日は部屋でゆっくり休むよ」
「えぇ、小さい場所だけど、くつろいでいって」
亀のおばあさんは、とても優しくしてくれた。
あまりたいした食事は作れないのだけど、と言いながら、温かいスープを用意してくれた。
お礼を言って受け取ると、カップから温かさが手のひらに伝わってきた。思わず、息が漏れる。
一口飲んでみると——野菜を煮込んだような、優しい甘さが口に広がった。
「結衣ちゃん、体に変化はない?」
「体調は平気か?」
ふと顔を上げると、なぜか二人が焦ったような表情で見ていた。
「……?」
思わず首を傾げると、アイルとキリはお互いに視線を交わした。
「魔族領の食べ物には、魔素が強すぎて人間の口には合わないはずなんだが……」
「舌がピリピリしたり、変な感じはない?」
「え……普通に美味しいと思ったけど」
二人が、また視線を合わせた。
(やっぱり、結衣ちゃんは勇者並み——もしくはそれ以上に、瘴気に対する耐性か浄化作用を持っている可能性が高い)
「もし、何か体調が悪くなったらすぐに教えてね」
アイルが、取り出しかけた小さな袋を見せた。中に、赤い小粒の実が入っている。
「これは世界樹で取れた実。体内に溜まった瘴気を中和してくれる」
「魔族領で過ごしていれば、どうやっても汚染された魔素を取り込んでしまう」
キリが続けた。
「だから、体調が悪くなったら絶対に無理しないこと」
「うん、分かった」
頷くと、二人の表情が少しだけ和らいだ。
結衣が普通に食事できることが分かってから、アイルとキリは試しにと魔族領の食べ物をいくつか買ってきてくれた。
人間の土地ほど穀物も植物も育たないために、主に食べられるのは魔獣——瘴気に耐性のある動物の肉らしい。
試しに一口食べてみると、旨味がたっぷり詰まっていた。濃くて、深い味。悪くない。
でも。
「……お米が食べたい」
思わず漏れた言葉に、アイルとキリが二人して笑った。
キリが笑うのは、まだ珍しい。
それでも、この旅に来てから確実に増えている気がして——結衣は、少しだけ嬉しくなった。
亀のおばあさんに借りた地図を広げて、あちこちの街の名前を聞く。
「ここはマサル。鉱山都市になってるんだよ」
(マサル……そう言えば)
「まさつ、っていう街って、あったりする?」
「まさつ?」
二人とも首を傾げた。多分、ないんだろう。
「夢だと思って気にしてなかったんだけど……」
そこで結衣は、初めて夢の内容を話した。面接をしていた夢を見たこと。"まさつ"に気をつけろ、と言われたこと。ノクスたちと米屋にいた時にも、奇妙な夢を見たこと。
「最初は抹殺?なんて思って、ちょっと物騒だと思ってさ」
小さく笑う。
でも、アイルとキリは笑わなかった。何かを考え込むように、表情が固まっている。
「結衣、その変な夢を見た時って……俺たちが結衣の部屋に押しかけた時か?」
「そうそう。私、うなされてたってキリが言ってた時」
あの時は、目覚めてすぐに三人に囲まれていることに驚いたっけ。懐かしい気持ちと、少しだけ温かい気持ちが、胸の奥から浮かんでくる。
「まさつ……まさつ……ちょっと思いつかないな。キリは?」
「俺も、聞いたことがない」
「ただの夢かもしれないし」
「もし、また夢を見たら、すぐに教えてくれ」
キリが、静かに言った。
夜、結衣が眠りについた後。
アイルとキリは、小声で話し合った。
「まさつ……気になるね」
「しかし、人の名前だったとしても聞いたことがない」
魔族領を訪れたことはある。でも、全ての街に行ったわけではない。二人の頭に、じわりと不安が広がっていく。
結衣は抹殺、なんて笑っていた。
でも——今の状況で、笑える話ではなかった。
今もまだ、監視されている気配を感じる。時折、殺気の混じった空気が飛んでくる。
「このまま野放しにするのはマズイかもしれないな」
「どうする?」
「こっちから仕掛けるか」
目が覚めた時、部屋に二人はいなかった。
朝の光が窓から差し込んでいる。でも、どこか薄曇りのようで、日が弱い。魔族領の朝は、こういうものらしいと、少しずつ慣れてきた気がした。
ベッドサイドに、紙切れが置いてあった。
日本語で、書いてある。
(朝ごはん買ってくるね)
アイルの字だ。
結衣は身支度を整えながら、二人が戻ってくるのを待った。
その時。薄い扉の向こうから、誰かの声が聞こえてきた。
「おい、聞いたか」
「聞いた聞いた」
同じ宿に泊まった、他のお客さんだろうか。
「魔王様に恋人かー」
「どんな方なんだろうな」
「そりゃあ、お前。魔王様の恋人だぞ!? 偉い強い人に違いない」
「それに俺たちには無縁なほど綺麗な方なんだろうな〜」
「ハハ、違いねぇ」
どくり、と。心臓が、嫌な音を立てた。
「こりゃあ、あっという間に結婚までいくんじゃないか? 今まで浮いた話一つなかったしな!」
「はー、俺も嫁さん欲しいなー」
足音が、遠ざかっていく。
静かになった部屋の中で、結衣はしばらく動けなかった。
魔王様に恋人。魔王というのは、言わずもがなノクスのことだ。
「ノクスに……恋人……?」
口に出して、初めて現実味を帯びた。
私とノクスは、そういう関係ではない。
でも、一年近く一緒に暮らせば、少なからず親しみを覚える。
恋愛関係ではないけれど——ノクスとはどこか特別に感じるものがあった。そう、思っていた。
誰かと付き合ったことのない結衣にとって、好きという気持ちは正直よく分からない。でも、ノクスと一緒にいる空間は居心地が良くて、安心できる場所になっていた。
これが好きなのか分からないけれど。
ちくちくと痛む胸が、答えになりそうだった。
ノクスは魔王だ。優しくて、頼りになって、圧倒的に優秀で。そんな人を、他の誰かが放っておくわけがない。恋人がいたって、おかしくない話なのに——なんで自分は、そんなことを考えていなかったんだろう。
(このまま……会いに行っていいのかな)
契約が切れてしまったのは、ひょっとしてノクスが必要ないと判断したから、では?
「でも、必ず、迎えに行くって……」
だけど、あれは夢だ。本物かどうかなんて分からない。自分が都合よく想像したものだったとしたら?
考え出したら、止まらない。
部屋の中が、急に静かすぎる気がした。
その思考を止めたのは——不意に、影が出来たからだった。
窓から差し込む光が、遮られた。
振り返ると、黒い衣装を全身に纏った人物が立っていた。
いつから、そこにいたのか。全く気配を感じなかった。
その人物が、手を伸ばした。
「……っ!」
腕を、ガッチリと掴まれた。
「結衣ちゃん!」
バタン、と扉が開いた。息を切らしたアイルが、部屋の中へ走り込んでくる。
次回更新予定日は28日木曜日です。
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