第25話 静かな警戒
朝になり、あたりは明るくなっていく。
けれど、魔族領の昼間はどこか薄暗かった。人間の土地とは、明らかに違う。
魔素濃度が人間の国よりも濃いためか、うっすらとモヤのような塊が漂って、太陽の光を遮ってしまうのだ。
おかげで魔族領で育つ作物は、人間の国に比べると随分と少ない。
ノクスが食糧管理に頭を悩ませていた理由が、少しだけ実感できた気がした。
まだ朝早いからか、結衣は眠ったままだった。
途中でアイルと火の番を代わったキリは、まだすっきりしない頭で、朝食の準備を始めたアイルの手伝いをすることにした。
『……キリ、気づいてる?』
ほとんど口を動かさないように、アイルが言う。
『……あぁ』
同じように、キリが返した。
傍から見れば、いつも通りの朝の準備だ。二人とも、手を動かしながら、表情も変えていない。
でも——内心は、あまり宜しくなかった。
『昨日からずっと、見られている』
『魔王軍かな? 接触してこないところを見ると……監視、って感じ?』
『おそらくな』
昨日の夜から、ちくちくとした視線をずっと感じていた。距離があるために、すぐに脅威になるわけではなさそうだが、あまり気分の良いものではない。
『向こうから接触してきてくれる方がありがたいが……』
『監視してる割には、ちょいちょい殺気が飛んでくるね』
そこが、問題だった。
ただの監視であれば、こちらを害する意図はない。でも——殺気が混じっているということは、誰かが独断で動く可能性がある。
(もし魔王が生きているなら)
部下に指示を出しているはずだ。結衣を探せ、と。危害を加えるな、と。
でも、もしノクスが部下に指示もできないほど衰弱しているなら——あの殺気は、統制の取れていない個人の判断から来ている可能性がある。
そこまで考えて、キリは頭を振った。
考えても、今は答えが出ない。
「……結衣ちゃんには、言わない方がいいかな」
アイルが、小声で言った。
「余計な心配をさせるだけだ」
「だね」
二人は、また無言で手を動かした。
朝食の匂いが、薄暗い空気の中に広がっていく。
そのとき。
「おはよう……」
布の中から、寝ぼけた声がした。
結衣が、目を擦りながら起き上がってくる。
「おはよう、結衣ちゃん」
アイルが、いつも通りの笑顔で返した。
キリも、視線だけを向けた。
「……よく眠れたか」
「うん、なんか急に眠くなっちゃって」
「そうか」
短く答えて、また手を動かす。
結衣は、欠伸をしながら周囲を見渡した。薄暗い空。赤みがかった大地。
「魔族領って、朝でもこんな感じなんだね」
「魔素のせいだ。光が遮られる」
「そっか……」
結衣が、帳簿をポケットから取り出した。いつもの癖で、ページを開く。
その目が、少しだけ曇った。
ノクスの欄が、まだ見られないのだろう。
キリは、それを横目で見ながら——何も言わなかった。
(もう少しだ)
心の中だけで、呟いた。
「ちょっと試したいことがあるの」
結衣は、そう言って干し肉を少し分けてもらった。
アイルとキリが、興味深そうに見ている。
「炊飯」
小さく呟く。
ポン、と小気味よい音を立てて——炊飯器が現れた。
白くて、丸みのある、見慣れた形。この赤い大地の上では、あまりにも場違いなものだった。
「……相変わらず、突然出てくるね」
アイルが、感心したように言う。
「うん」
結衣は、さっそく蓋を開けた。香草と水を少々。それから、分けてもらった干し肉を小さくちぎって一緒に入れる。蓋を閉めて——いつも通り、炊飯ボタンを押してみる。
無反応だった。
「……動かない」
虚しいほどに、何も変化がない。
プラプラと垂れ下がったコンセントが、まるで「電気がないのに動くわけないでしょ」とでも言いたげに揺れている。
「帳簿には、魔力で動くって書いてあったんだけど」
「……魔力を流せばいいんじゃないか」
キリが、腕を組みながら言う。
「うーん……」
(魔力を流せと言われても…)
結衣は、プラプラと揺れるコンセントを見つめた。
コンセントを、掴んでみる。
その瞬間。
ピッ。
小さな音がして、炊飯器の表示が光った。
「「「……」」」
三人、揃って固まった。
「……今、光った?」
「光った」
「結衣ちゃんが触ったら、光った」
「……なんで?」
「分からない」
キリが、珍しく答えに詰まった。
結衣は、コンセントを握ったまま炊飯器を見た。表示は光ったままだ。消えていない。
「もしかして……私が魔力の代わりになってる?」
「……測定不能、だったな」
キリが、静かに呟いた。
「帳簿のお前の魔力残高。測定不能、と出ていた」
「それって——」
「ないんじゃなくて、計測できないほど特殊な何かがある、ということかもしれない」
アイルが、真剣な顔で続ける。
「結衣ちゃん、試しにそのままボタン押してみて」
「う、うん」
コンセントを握ったまま、もう一度炊飯ボタンを押す。
カチッ。
炊飯器が、動き始めた。
ほんのりと、温かくなっていく。
「……動いた」
「動いたね」
「……」
三人、しばらく炊飯器を見つめていた。
「でも、これ…私ずっとコンセント握ってないとダメなんじゃ…」
「「…。」」
(やっぱり、炊飯器の出番は当分なしだな)
近くの街を目指す結衣たち。途中で休憩を挟みながら、ただひたすらに歩いていく。…もちろん、片手間に成米と呟いて、いつか食べられるお米になることを願いながらだけど。
最初は、エルフの里での一悶着から気が引けていたけど…。
「でも魔王の管理してる土地だから、何とかなるんじゃない?」
アイルのその一言で、結衣は半ば開き直ることにした。
エルフの里での一悶着から、しばらくは気が引けていた。でも——そう言われれば、確かにそうかもしれない。
「……そうだね」
というわけで、歩きながら片手間に呟き続けている。
「成米」
さらさらと、手のひらに玄米が落ちる。
風に飛ばされそうになるのを手で受け止めながら、赤みがかった大地に一粒ずつ落としていく。乾燥した土。砂混じりの風。稲にとって、環境は最悪と言っていいほどだ。
(こんな土地で、育つかな)
そもそも、エルフの里で見つかった稲は、たまたま条件の良い場所に落ちたものかもしれない。水が近くにあって、魔素が適度に——
(でも、育つのが早すぎたんだよね)
里の長が持ってきたあの稲は、明らかに異常な速度で育っていた。乾燥した魔族領では、さすがに無理かもしれないけれど。
まぁ、やらないよりはいいか。
「成米」
さらさら。
「成米」
さらさら。
(白米が食べたい…)
開けた土地が多く、視界は良好だった。でも——巻き上がる風が強くて、土埃がすごい。
ショールを口に巻いて、なんとかしのぎながら歩き続ける。目を細めても、細かい砂が入ってくる。人間の国とは、根本的に空気が違う。
どのくらい歩いただろうか。
遠くに、煙が上がっているのが見えた。
「街だ」
「やっと一息つけるね」
アイルが、ほっとしたように言う。
結衣も、思わず足が速くなりかけた。
もうすぐ街に入る——その少し前に、アイルが足を緩めた。
「ちょっと、聞いておいてほしいことがあって」
「うん?」
「まだ王都じゃないから大丈夫だとは思うけど」
アイルが、少しだけ真剣な顔になる。
「魔族にとって、名前はとても特別なものなんだ」
「特別?」
「個を表す存在として、契約とかにも使われるから——強い魔族ほど、名前を簡単に呼んじゃいけない」
「……だからアイルたちは、ノクスのことを名前で呼ばないんだね」
「うん」
アイルが、頷く。
「まあ、あの魔王の性格上、あまり気にしていなさそうだけど——念の為、ね」
考えてみれば——結衣がノクスの名前を知ったのも、出会ってからしばらく経った後の、あの契約の時だった。
『結衣、私の名を呼べ』
あの瞬間のことが、鮮明に浮かんでくる。
「それともう一つ」
アイルが続ける。
「魔族は、人間よりも血の気の多いやつが多い」
「血の気が……」
「力こそ全て、上下関係のはっきりした種族だから」
キリが、補足するように言った。
「だからこそ、あの魔王の代になるまで争いも絶えなかったと聞く」
「……ノクスが統一したんだよね」
「そうだ。あれだけの混乱を数十年で収めたのだから——相当なものだ」
キリの言い方は、いつも通り淡々としていた。でも、その言葉の端には、確かな敬意があった。
「だから」
アイルが、結衣を見る。
「街の中で、誰かと揉めたり、目を合わせすぎたりしないようにね」
「……分かった」




