第24話 キリの覚悟
結衣……。
ノクスは、動かない体のまま、静かに感じ取っていた。
契約魔術が、切れていく。
じわりと、ほどけるように。糸が一本ずつ解れていくような感覚。
期間を定めて更新制にしたのは、結衣のためでもあった。
あの時は、それが最善だと思っていた。だが…こんなところで、それが足枷になるとは。
(皮肉なものだ)
結衣の世界へと強制的に転移させられた時は、まだかろうじて姿を保てた。
あの炊飯器から引き出された時と同じように。
しかも、魔力のたっぷり詰まった米を食べたことで、生命を脅かすほどのものではなかった。
だが、今回は違った。
大規模な転移術に結衣を巻き込むまいと抵抗した。
それ自体は、後悔していない。
でも、その結果として、死ぬ寸前まで魔力を失った。
今は指一本動かすことすらままならない。
瞼すら、重い。
意識だけが、薄く薄く、浮いている。
(結衣は、無事か)
それだけが、頭の中をぐるぐると回っていた。
夢渡しで、一瞬だけ会えた。無事だと言っていた。アイルとキリがいると言っていた。
でも——急拵えの夢渡しでは、何も伝えることができなかった。
言いたいことは、山ほどあったのに。
ノクスがなんとか起き上がることができたのは、この世界に戻ってきてすでに二週間が経った頃だった。
ゆっくりと、瞼を開く。
見慣れた天井。魔王城の自室。
体が、鉛のように重い。それでも——動く。
「……クロード」
かすれた声だった。それでも、確かに出た。
「状況は?」
「はっ。魔王様の不在時緊急プロトコルに従い、情報統制、政策の運用、滞りなく進んでおります」
そこは心配していなかった。トップがいないくらいで業務が滞るようなシステムは、最初から作っていない。
それよりも。
「結衣は……情報はあるか?」
その言葉に、クロードの声が一瞬詰まった。
「申し訳ありません。人間の街で確認された反応を最後に、手がかりが掴めず……今はリシェルの配下が痕跡を追っています。今しばらくお待ちを」
「……そうか」
それだけ言って、ノクスはまた目を閉じた。
眠るというより、意識を手放すような落ち方だった。体が、まだそれしかできないのだろう。
クロードは、しばらくその寝顔を見ていた。
それから、小さく息を吐いた。
「魔王様に、なんと報告すれば良いのか……」
実際には、状況は動いていた。
魔族領にて転移術の反応が感知され、今は配下が現地確認中だ。
問題は——その報告内容だった。
魔王様の恋人と思われる人間は、確かにいた。
転移術の反応と、契約魔術の残滓から、間違いないと判断している。
だが。
厄介なのは、共にいるのがエルフらしい、ということだ。
それも——二人。
しかも。
「このような報告書、魔王様には見せられない」
クロードは、手の中の報告書を見つめた。
エルフの一人が、その人間を抱きしめていた、という報告が上がっている。何やら親密そうな雰囲気だったとも。
どう考えても、魔王様の耳に入れていい情報ではなかった。
今の状態で見せれば、無理やり起き上がろうとするのが目に見えている。最悪、また魔力を使い果たす。
「……困りましたね」
一人呟く。
そこへ。
「邪魔なら、排除してしまえばいい」
セヴランが、冷たい声で言った。
「ですが……」
「魔王様の回復を妨げる要因は、取り除くのが道理だろう」
「それは、そうですが……」
クロードは、言葉を選んだ。
「相手は、エルフです。しかも、その人間と共に行動している。手を出せば、余計な火種になりかねません」
「ならば、魔王様が回復されるまで引き離しておけばいい」
「……」
簡単に言ってくれる、とクロードは思った。
でも…否定もできない。
結局のところ、今のクロードには判断材料が足りなかった。そのエルフと人間の関係が、どの程度のものなのか。魔王様との間に、何があったのか。
下手に動いて、魔王様を余計に傷つける結果になることだけは、避けなければならない。
「……一行の動向を引き続き監視してください」
クロードは、報告書を引き出しの奥にしまいながら言った。
「決断は、もう少し情報が集まってから」
セヴランは、何も言わなかった。
その沈黙が、同意なのか呆れなのか、クロードには分からなかった。
ベッドの上で、ノクスは静かに眠り続けていた。
クロードが配下からの報告書を見る、数時間前のこと。
簡易的な結界を張った結衣たちは、一晩、大きな岩の傍で野宿することになった。
簡単な食事を済ませて、魔術で保温性を高めた布にくるまる。
今はキリが火の番をしていた。アイルは布に包まったまま、すでに穏やかな寝息を立てている。
結衣は——もちろん、眠れなかった。
パチパチと音を立てる炎を見ながら、時折目を瞑ってみる。
でも、眠気などすっかりどこかに置いてきてしまったようだった。昼間に寝てしまったせいもある。
素直に諦めて、座り直した。
「眠れないか?」
「うん……昼間寝ちゃったしね」
キリの隣に腰を下ろしながら、帳簿をぱらりと開いてみる。
相変わらず、ノクスの項目は見られない。接続切断。その文字だけが、変わらずそこにあった。
「もう少しだ」
キリの声が、静かに落ちてきた。
「……うん」
小さく頷く。
炎が、揺れた。
「私、この世界に来て——ちょっと後悔してることがあってね」
ぽつりと、言葉が出た。
キリは、何も言わずに耳を傾けた。
「突然、何も分からない世界に放り出されるのが、こんなに不安なことだと思っても見なかったから……」
「もっとキリたちの不安とか、ちゃんと寄り添ってあげてなかったなって」
思えば——訳の分からない存在が炊飯器から突然出てきて。見た目が派手だから、近所の人の目も気にして。考えてみれば、ノクスたちの心配よりも、自分の心配ばかりしていた気がする。
あの時、警戒していたキリの気持ちが、今なら痛いほど分かる。
「だから、今ちょっと反省中」
小さく笑う。
キリは、目を細めた。
「あれだけ平和な世界だ。その感覚は、間違っていないと思う」
「キリは本当に優しいんだから」
「……実際、アイルは心から楽しんでいたしな」
「……俺も、途中からは人のことを言えなくなっていたが」
「コンビニで、すごくはしゃいでたもんね」
「……それは、言わなくていい」
「ふふ」
なんだか懐かしい。そう言う結衣の表情が、炎に照らされて柔らかく見えた。
しばらく、二人とも黙っていた。
炎が、パチパチとはぜる。
「……俺は、お前にとても救われたんだ」
キリが、静かに言った。
「……?」
「エルフの里では、双子は禁忌だと言っただろう」
「うん」
「だから…結衣の世界で初めて、生きていていいと、肯定された気がした」
「キリ……」
実際にエルフの里を見た今だから、その言葉の重さが、ずしりと伝わってくる。
あの里の空気。あの両親の言葉。贖罪をしろ。役に立っていない。
そんな場所で生まれて、そんな言葉を受け続けて——それでもキリは、ここまで来た。
「褒めてもらったこと、なかったから」
キリが、視線を炎に向けたまま続けた。
「最初は、何が目的なのかと疑っていた」
「うん……そうだったね」
「だが」
「結衣は、何も求めなかった」
「求めてたよ。色々手伝ってもらったりしてたし」
「そうじゃない」
キリが、少しだけ結衣の方を向いた。
「存在することへの対価を、求めなかった」
「……」
「ただ、そこにいることを…当たり前にしてくれた」
結衣は、言葉が出なかった。
(当たり前のことだと思ってた)
誰かがそこにいることを、当たり前にする。それが、こんなにも誰かの支えになるとは、思っていなかった。
「お礼を言う機会が、なかなかなかった」
キリが、また炎に視線を戻す。
「だから、今言う」
「ありがとう、結衣」
「……」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……どういたしまして」
声が、少しだけ湿った。
慌てて、視線を炎に向ける。泣くつもりなんてなかったのに。
不意に、体が傾いた。
気づいたら…キリの腕の中だった。
「……キリ?」
「悪い」
低く、静かな声。
「しばらく、このままでいさせてくれ」
珍しい言い方だった。いつもの淡々とした口調ではなくて——何かを、押し殺したような。
結衣は、何も言わなかった。
言えなかった、というより。
何も言わなくていい気がした。
(もう少ししたら)
キリの胸の中で、思考が静かに回っていた。
(魔王の元に、結衣は行ってしまうんだろう)
それは、正しいことだ。結衣が望んでいることで、自分もそれを望んでいる。
(だから、今だけは)
腕に、わずかに力が入った。
炎が、パチパチとはぜる。
アイルの寝息が、遠くで続いている。
結衣は、キリの腕の温かさを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
何も言わなかった。
何も、聞かなかった。
ただ——このままでいた。
やがて。
気づいた時には、結衣は眠っていた。
キリは、しばらくそのままでいた。
炎が、少しずつ小さくなっていく。
(笑顔でいてくれ)
ずっと、そう思ってきた。
(それだけで、十分だ)
眠っている結衣の顔を、一度だけ見た。
それから、静かに前を向いた。
炎の番を、続けた。




