第21話 無理なものは無理
ほぼほぼ毎日仕事をしていた豊にとって、こんなにも働いていないのは実に初めての経験だった。
挨拶をしたいと連日やってくる人波が落ち着いた頃には、もう一週間以上も経っていた。
(米が、食いたい)
それだけが、頭の中をぐるぐると回っていた。
携帯型ゲーム機は、最初に見た以上の変化は見られない。
部屋の中をうろうろしていても、やることがない。
何か体を動かしていないと、ウズウズしてしまう。
暇つぶしに外の大きな庭をランニングしていたら、血相を変えたエレンに部屋に連れ戻された。
懲りずに今度は、城の廊下で掃除をするメイドに遭遇した。
「暇で暇で仕方なくて……頼む、手伝わせてくれ」
邪気のない目で懇願する豊に、メイドも断りきれなかった。
窓の高いところを窓拭きしていたら、またエレンが来た。
「なんで窓拭いてるんだよ!!」
「暇なんだよ!」
「頼むから、部屋で大人しくしててくれ!!」
そういうやり取りが、何度か繰り返された。
そのうちに、豊は気づいた。
(エレンが来る前に逃げればいいんだ)
それからは早かった。面倒そうな掃除場所を代わりにやらせてくれとメイドに懇願し、半ば雑巾をもぎ取るように奪い去っていく。
鼻歌を歌いながら拭き掃除をしていると——
(……来る)
豊の勘が、突然騒ぎ出した。
「くっ。今日は早くないか!?」
足早にその場を走って逃げる聖人様と、それを全力で追いかける勇者様。
それが最近の、メイドたちの話のネタになっていた。
「今日はシャンデリアの掃除してたわよ」
「ふふっ。本当に聖人様って変わっているわね」
「この前なんて、洗濯物運ぶの手伝ってもらっちゃった」
「笑顔が可愛いわよね」
「勇者様も必死で追いかけてたわ」
豊の元からの人の良さが伝わるのか、メイドたちの評判は上々だった。
あれも助けてもらったわ、これも手伝ってもらったのよ、という声が、城のあちこちから上がり始めている。
兵士たちの間にも、じわじわと豊への好感が広がっていた。
きっかけは、ある日の廊下でのことだった。
「頼むよ、俺一人だと食べきれなくて」
扉の前で仕事をしている兵士に、豊は両手で菓子の乗った皿を差し出した。
「いつもずっとここで立ってるだろ? この通りだからさ、もらってくれない?」
まるで子供みたいに邪気のない表情で懇願してくる様子に、兵士は折れた。
それ以来、豊の顔を見るとついつい話しかけてしまう兵士が増えていった。
そして最近では——エレンがどこにいるかという情報を、さりげなく豊に流しているのも彼らだった。
「勇者様、今日は東の棟におられますよ」
「ありがとう、助かった」
「お気をつけて、聖人様」
「おう」
にかっと笑って、豊は反対方向へ歩き出す。
「くそっ……おかしい」
エレンは、城内を歩きながら歯噛みした。
「頭が良いとは思えない豊が、こんなに捕まらないなんて……!!」
(どいつだ。どこの誰かが情報を流してる!)
いくら探しても、豊の姿が見えない。ひょこひょこと逃げ回るくせに、こちらが近づく前に消えている。
そのとき。
「エレクト様。お久しぶりです」
振り返ると、廊下の奥に人が立っていた。
柔和な笑み。薄い廃紫の長い髪。窓から入る日の光に照らされる、彫刻のように整った顔。
(げっ……よりにもよって、なんでこいつが)
「お、お久しぶりです、枢機卿」
「私のことはカシウス、と。何度もおっしゃってますのに」
「いえいえ……枢機卿ほどの方を名前で呼ぶなど……」
じり、と後ろに下がりたくなる足を押さえつけるのに必死だった。
カシウスが、一歩近づいてくる。ニコリと…誰もが見惚れてしまうほどの、甘い笑みをこぼした。
「実は、こちらに寄ったついでに、聖人様にご挨拶を、と思ったのですが」
困ったように眉を寄せて、首を傾げる。
その仕草に、近くにいたメイドが思わずほぅ、と声を漏らした。
「お部屋にいらっしゃらなかったので……」
「せ、聖人様は、少々独創的な方のようで……」
「ふふ、お話は聞いております」
カシウスが、さらに距離を詰めてくる。
「エレクト様も、さぞ大変でしょう」
白く細い指が、そっとエレンの手を取った。
「あまりご無理はなさらないでくださいね」
手を掴む力が、じわりと強くなる。
握り込まれる。
逃げられない。
「勇者様は…エレクト様は、この国になくてはならない存在なのですから」
さらに近づいてきたカシウスが、騎士が誓いを立てるかのように、エレンの手を口元へと近づけた。
「女神ルミエラ様のご加護がありますように」
吐息が、手の甲に触れた。
そこまでで…エレンには、限界だった。
「あ、ありがとうございます。それでは、私はこれで失礼します……聖人様を、探さなくてはなりませんので」
礼をして、早足でその場を離れる。
角を曲がると、柱の陰に隠れている豊が見えた。
「見つけた!!」
「え、エレン、落ち着け……!」
問答無用で腕を掴んで、足早に部屋へと引きずっていく。
部屋に戻った豊は、飛んでくるであろう怒声に身構えた。
けれど、エレンは豊を見ることなく、一目散に部屋の隅へと向かった。
常時置かれている水桶に、左手を突っ込む。
そのまま、これでもかというほど洗い始めた。
「ど、どうしたんだ……?」
「あーーーー!! 本当に無理!!!」
親の仇のような表情で手を洗い続けるエレン。
「大丈夫か?」
「全然大丈夫じゃない!!」
「わっ!」
振り返ったエレンの表情の凄まじいこと。
「本当に、よく分からないけどあいつだけは何故か生理的に受け付けない!!」
「……ひょっとして、さっき会ってた、ちょっと偉そうな服の人?」
豊は、廊下で見かけた人物を思い出しながら聞く。
「そう! カシウス枢機卿!!」
エレンが、吐き捨てるように言った。
「……うぅ。言葉に出すのも嫌だ」
「珍しいな……エレンがそんなに嫌うやつって」
「言っただろう? なんか分からないが、生理的に無理なんだよ! あいつは優しい顔して、絶対腹の中は真っ黒なタイプだ!!」
洗い終わった手を、今度はこれでもかというほどゴシゴシと拭くエレン。
見かねた豊が、そっとエレンの手を掴んだ。
「ダメだって。そんなに擦ったら赤くなっちゃうだろ?」
止められたエレンが、ジト目で豊を見る。
「もちろん、豊! お前も僕の嫌いなタイプだからな!」
「ははっ。手厳しいな!」
嫌い、と言われても、豊は気に留めなかった。
だって…本当に嫌いなやつだったら、手を振り払うだろ?
掴まれたままのエレンの手が、ゆっくりと力を抜いていく。
豊は、それを見て…何も言わなかった。




