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第20話 噂の発端



次の瞬間、ノクスの体が崩れ落ちた。


「魔王様!!」


クロードが飛び出す。倒れ込むノクスの体を、間一髪で支えた。


「ノルティア!」

「装置、最大出力に切り替える」


ノルティアが、素早く機械を操作した。警告音が、また鳴り響く。


「無理をなさるから……!」


クロードの声が、珍しく乱れた。ただでさえ魔力量が足りていないと言うのに、今の魔王様の状態で夢渡しを使えば、どうなるか。分かりきっていたことだ。

部屋の空気が、張り詰める。

そんな中で。


「ふふ……ふふふ」


場違いな笑い声が、静かに響いた。


「何がおかしいのですか!!」


クロードが、振り返って吠えた。

リシェルが、口元に手を当てて笑っている。その目が、いたずらっぽく輝いていた。


「魔王様には悪いのだけど……ちょっと覗いてしまったのよね」

「覗いた……?」

「夢渡しの術式に乗せてもらって、ほんのちょっとだけ」

「それは——」

「もう、それはそれは熱い抱擁を交わしていたわ」

「なっ……」


クロードが、絶句した。


「その……その人間と、魔王様が……?」

「えぇ」


リシェルが、うっとりと目を細める。


「百年分の感情が一気に溢れ出た感じ、とでも言いましょうか。見ているこちらが照れるくらいだったわ」


部屋の中に、沈黙が落ちた。

幹部たちが、それぞれの顔で考え込む。


「……しかし」

ガルドが、太い腕を組んだ。


「人間か」

「そうだな」


セヴランが、静かに口を開いた。長い髪が肩から流れる。


「別に、人間でも構わないだろう」

「セヴラン様?」

「側妃でも妾にでも据えて、本妻は魔族から迎えればいい。貴族へのメンツも保たれよう」

「人間は弱ぇからな」


ガルドが、こともなげに頷く。


「魔族領に連れてくるだけでも、ひと苦労だろうが」

「でも」


ノルティアが、装置を操作しながら、ぼそりと言った。


「もし魔王様が本気だったら」

「……?」

「下手をすれば、私たちの首が飛ぶかも」


部屋の中が、しん、と静まり返った。

百年間、魔王妃の候補を片っ端から「無駄だ」の一言で断り続けた御方だ。その魔王様が、あの状態で真っ先に名前を呼んだ相手。夢渡しに魔力を全部使い切ってでも会いに行った相手。


「と、とにかく!」


クロードが、気を取り直したように声を張り上げた。


「ユイという人間の女性が、魔王様にとって大切な方だということは分かりました!」


全員が、頷く。


「何が何でも、ここまで連れてこなければ……!」

「賛成」「異論なし」「同意する」「……まあ」


声が、重なった。

そして。

その場にいた全員の頭の中に、同じ言葉が浮かんでいた。


(魔王様の……恋人か)

誰も、口には出さなかったが。





「聞いたか?」


市場の露店で、魔族の女が声を潜めた。


「魔王様に、恋人ができたらしい」

「マジか!?」


隣の男が、目を見開く。


「そりゃめでたいな!」

「で、誰なんだ?」

「いや、それが分からねぇんだよ」


噂は、すでに魔族領の各地へ広がり始めていた。


「でも」

別の女魔族が、腕を組む。


「魔王様に選ばれるくらいだ。相当な方だろうねぇ」

「あぁ。きっと、とんでもねぇ美人だ」

「やっぱ火龍の一族じゃない?」


誰かが、ぽつりと言った。


「ほら、あの一族にいたでしょ。すごい美人の…」

「あー、聞いたことある!」

「いや待て。氷狼族の姫って線もあるぞ」

「でも魔王様、百年も誰にも興味なかったんだろ?」

「ってことは、相当だよな……」


話は、どんどん大きくなっていく。

その頃。

魔王城の一室で。


「……ふふ」


リシェルが、優雅に紅茶を飲んでいた。


「何がおかしい」

セヴランが、冷たい視線を向ける。


「別に?」


リシェルは、にっこりと笑った。



「ちょっと、話題提供しただけよ」

「お前か」






同じ頃、聖都ルーメリアの教会の奥深く。

限られた者しか入ることを許されない場所。分厚い石造りの壁に囲まれた、静かな部屋。外の喧騒が、まるで別世界のように遠い。


深い椅子に腰掛けた老齢の男性が、紙の束に視線を落としていた。深く刻まれた皺は、長年培ってきた叡智をその顔に刻みつけているようだった。

蝋燭の明かりが、静かに揺れる。


その前に、一人の男が傅いていた。

薄い廃紫の長い髪が、蝋燭の明かりに照らされて、時折血を思わせる赤みに変わる。伏せられた顔は彫刻のように整っていて、指の先まで研ぎ澄まされたような鮮麗さを思わせた。

やがて。老齢の男性が、紙の束から顔を上げた。


「聖人様が現れた、と」

静かな声だった。


「お前はどう見る、カシウス」

カシウスと呼ばれた男は、頭を垂れたまま答えた。


「アレクシウス様」

低く、穏やかな声。


「私も遠目ではありますが、確認いたしました。まだ力の片鱗は確認されていませんが、彼の持つ力は本物です。他にも詳細な鑑定を何名かが行い、確認が取れています」

「聖人様と勇者……」


アレクシウスが、ゆっくりと椅子に背を預けた。


「この二つが揃うなど、今までにないことだ」

「はい」

「勇者は、以前からここにいた。だが聖人が現れたのは——何百年ぶりか」

「記録では、三百年以上前かと」

「そうか」


老いた目が、細くなった。


「王家も動き始めているのか」

「密かに、ですが」


カシウスが、静かに続ける。


「聖印が遺伝することは、王家も把握しています。おそらく、すでに手を打とうとしているかと」

「……聖印の管理は、教会の領分」


アレクシウスの声が、わずかに低くなった。


「断じて、国に取られることはならん」

「はい、心得ております」


カシウスは、頭を垂れたまま答えた。

その顔が伏せられているために、アレクシウスには彼の口元が歪んだ笑みを浮かべているのを見ることは出来ない。


「必ずや、教会のものに」


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