第18話 二人の本気
結衣は、動かなかった。
息はしている。胸が、かすかに上下している。でも、呼びかけても、揺さぶっても——目を開けない。
「どうしようか」
アイルが、静かに言った。
世界樹まで、まだ距離がある。このまま待つのか。戻るのか。
「……俺が背負っていく」
キリが、言った。
アイルは、キリを見た。
真剣な眼差しだった。迷いが、ない。
「……分かった」
折れるように、頷く。
「重力操作でフォローする。でも、絶対に無理はしないこと」
「あぁ」
キリは、結衣のそばにしゃがみ込んだ。
そっと、乱れた髪を整える。泣きながら取り乱して、気を失った。その痕跡が、まだ顔に残っていた。
(……見たくなかった)
さっきの光景が、瞼の裏に張り付いて消えない。
帳簿を握りしめた手が震えていた。息が乱れていた。声にならない言葉を絞り出しながら、それでも抑えきれなくて——そのまま、崩れるように意識を失った。
恐らく、これまでの疲労と心労が積み重なった結果だろう。
慣れない旅。危険な道中。眠れない夜。
そして——契約印が消えた、という事実。
(そんなに取り乱すほど、大事なんだな)
ノクスが。
分かっていた。ずっと前から、分かっていた。
結衣が契約印を触る癖のことも。帳簿でノクスの欄ばかりを確認することも。夢の中で泣きながら目を覚ましたことも。
全部、知っていた。
だからこそ——この胸の奥が、ひどく苦しい。
(それでも)
キリは、結衣をそっと背負った。思ったより、軽い。でも、温かかった。
(連れていく)
魔王の元へ。
この子が、ずっと探し続けている人の元へ。
「行こう」
「うん」
アイルが、軽く手をかざした。重力を操る術式が、静かに展開する。キリの背中の荷が、わずかに軽くなる。
二人は、歩き出した。
風が吹いていた。
崖沿いの細い道を、二人で進んでいく。
(結衣には、笑顔がよく似合う)
泣き顔でも、困り顔でも、緊張した顔でも——どれも結衣だと思う。でも。
あんなふうに崩れていくのは、もう見たくなかった。
(だから、連れていく。絶対に)
キリは、前を向いたまま、ただ歩き続けた。
キリとアイルは、黙々と登り続けた。
滴る汗を、腕で拭う。
結衣の体は、アイルの重力操作で軽くなっているはずだった。それでも——一人分の体重を背負いながら、人一人がやっと通れる急斜面を登るのは、普通に進むだけでも息が上がるほどだった。
それでも、弱音は一言も出なかった。
ただ、前を向いて、足を動かし続けた。
やがて。
視界が、霧に包まれ始めた。
足元が、岩から木の根のようなものに変わっていく。世界樹の根だ。ここまで来れば——もう少しだ。
アイルが、風の魔術を展開した。空気の層が、二人の周りを薄く包む。濃い魔素の中を進むための、簡易的な結界だった。
道が広くなり始めた頃。
キリは、ようやく足を止めた。
そっと、結衣を地面に下ろす。
「お疲れ様」
アイルが、汗を拭いながら水袋を差し出す。
「ここまで来れば、あともうちょっとだね」
「あぁ」
受け取って、一口飲む。冷たい水が、喉を流れていく。
「もう一踏ん張りだ」
二人は、その場に腰を落とした。
しばらく、無言で息を整える。霧の中で、風の音だけが続いていた。
「今度は僕が背負うよ」
アイルが、立ち上がろうとして——止まった。
「キリ!」
声が、跳ね上がった。
「結衣ちゃんが——!」
弾かれたように、キリが駆け寄る。
結衣の顔が、赤かった。わずかに汗が滲んで、呼吸が浅い。
「熱か……?」
声に、わずかに焦りが滲んだ。
「……待って、これ」
アイルが、結衣の手に目を止めた。手の甲に、小さな発疹がある。そっと袖を捲ると——腕にも、ぽつぽつと広がっていた。
「一体これは……」
二人の頭の中で、知識が高速で巡り始める。
アレルギーか。毒性のものか。でも——二人には、同じ症状が出ていない。結衣だけだ。
何を見落としている。
考えろ。
俺たち二人にはなくて、結衣にあるもの。人間の——
そこまで考えて、ハッとする。
顔を上げると、アイルと視線が合った。
「まさか……」
「あぁ……」
「夜香樹の油」
宿屋で使われていた蝋燭。虫除けに広く使われる油が、原料に使われていたはずだ。ほとんどの人間には害がない。でも、ごく稀に——発疹を引き起こすことがある。
普段であれば、軽症で済む。
でも、今の結衣には——慣れない旅の疲労。眠れない夜。精神的な限界。それらが積み重なって、免疫力が落ちていた。
宿屋にいた時に、じわじわと蓄積されていたものが、今になって出てしまった。
「くそっ……」
キリが、低く言った。
「もっと慎重に考えるべきだった」
「僕もだよ」
アイルが、静かに言う。
「二人とも、見落としてた」
自責している場合じゃない。
「急ぐぞ」
安静にしていれば、症状は治まるはずだ。でも、こんな場所に寝かせておくわけにはいかない。
「久しぶりに、全力出しちゃおうか」
アイルが、立ち上がった。術式が、次々に展開されていく。重力操作。風の強化。足元を固める術式。
「アイル、へばるなよ」
「そっちこそ」
キリは、もう一度結衣を背負った。
さっきより、体が熱い。
「絶対に、里まで連れていく」
誰に言うでもなく、呟いた。
アイルは、何も言わなかった。
ただ、頷いて——前を向いた。
二人は、霧の中を走り出した。




