第17話 米袋をください
聖人様扱いをされて、はや数日。
豊は、ソファの上で盛大にため息をついた。
最初の日は、大司祭のエルネストだった。次の日は、どこかの司祭が三人。その次の日は、公爵と名乗る人物が従者を十人近く連れてやってきた。子爵。男爵。さらにはどこかの王族とかいう人たちの前まで連れていかれた。
しかも、その度に司祭と似たような服装を着せられて、あちこちに連れ回される。
「また、明日も来客がある」
エレンが、扉を閉めながら言った。
「何人?」
「六人」
「……無理」
「無理じゃない」
「名前が覚えられない」
「そんなの僕だって最初は——」
「もう全員同じ顔に見えてくる」
「……それは失礼すぎる」
豊は、ソファに深く沈み込んだ。腕を目の上に乗せて、天井を見る。
「いやー、本当にエレンはすごいな」
「何が」
「あんな数の人間の名前、よく覚えられるよ。俺にはもう無理だ」
深く息を吐く豊に、エレンは椅子を引いて座った。
「とりあえず、愛想だけ振りまいてくれたらいいんだよ」
「愛想?」
「にこっと笑って、ありがたいお言葉です、くらい言っとけばいい」
「それだけでいいの?」
「そうすれば貴族も司祭も大体満足するんだから。名前なんて、別に全部覚えなくていい」
「……それ、最初に教えてくれたら良かったんだけど」
「だから、いちいち固まるな。あれが一番まずい」
エレンが、呆れたように言う。
「固まった瞬間に、相手が気を遣い始めるから、余計に話が長くなる」
「なるほど……」
豊は、天井を見たまま唸った。
「じゃあ、とにかく笑顔?」
「そう。笑顔さえあれば、だいたいなんとかなる」
「エレンは笑顔が得意だもんな」
「まあね」
あっさりと言う。
「俺は苦手だよ。愛想笑いって、疲れるんだよな」
「……」
エレンが、少しだけ黙った。
「疲れるのは、本当だと思ってないからじゃないの」
「え?」
「愛想笑いって、相手のためにするものだから。相手が喜んでくれてるって思えば、そんなに疲れない」
「……なんか、プロみたいなこと言うな」
「勇者だから」
「なんでも勇者のせいにするな」
「勇者だからだよ」
エレンが、少しだけ笑った。
ここ数日、ずっと一緒にいるせいか——エレンの口調が、豊の前だけ砕ける。最初の頃の、キラキラした笑顔の勇者様、という雰囲気が、少しずつ剥がれてきている気がした。
豊は、それを特に指摘しなかった。
(この方が、話しやすい)
そう思っていたから。
「なあ、エレン」
「なに」
「結衣たち、大丈夫かな」
天井を見たまま、ぽつりと言う。
エレンは、少しの間黙った。
「……大丈夫じゃない?飛ばされる前、近くに双子がいたんだし」
「そうだな」
「心配なの?」
「まあ」
豊は、腕を目の上から外した。
「結衣、意外と抱え込むから」
「……そうだね」
エレンの声が、少しだけ変わった。
「でも、あの子は」
「ちゃんと、前に進めると思うよ」
根拠のない言葉ではなかった。
豊は、それ以上何も聞かなかった。
ただ、小さく頷いた。
「……そうだな」
窓の外で、聖都の鐘が鳴り始めた。
また、夕方の時間だ。
「明日の来客、六人か」
「六人」
「……愛想笑いの練習でもするか」
「今更?」
「今更でも、やらないよりはいいだろ」
エレンが、少しだけ笑った。
「まあ、そうだね」
「どんな顔すればいい?」
「自然に笑えばいい」
「こう?」
豊が、ぎこちなく口角を上げた。
「……それは、ちょっとまずい」
「どこが」
「全部」
「厳しい」
「正直なんだよ」
「勇者なのに?」
「勇者だから」
豊は、また深くため息をついた。でも——さっきより、少しだけ軽かった。
これで豊も少しは上手く立ち回れるようになるか。
そう考えた時もあった。
けれど、エレンの考えは甘かったのだ。
「勇者様!こんな早朝に、申し訳ございません!」
扉が、激しく叩かれた。
エレンは、目を開けた。まだ夜も明けきっていない。窓の外が、薄暗い。
(……何時だ)
眠気を押さえながら、ベッドから立ち上がる。乱れた髪を手早く整えて、扉を開けた。
廊下に、メイドが立っていた。顔が青い。
「どうしたの?」
エレンは、にこりと笑いかけた。いつも通りの笑顔で。
「せ、聖人様が……!」
「聖人様が?」
「その……こちらへ」
メイドが、廊下を指さす。
その先から——ドタドタという足音が聞こえてきた。
規則正しい。リズミカル。
まるで、何かを繰り返しているような。
エレンは、廊下に出た。
視線の先に、動くものがいた。
王宮の大階段を、上り下りしている人影。しかも——その背中に、何かを背負っている。
目を細めて、よく見ると。
壺だった。
どこかから持ってきたらしい、明らかに高価そうな壺を、背中にくくりつけて。黙々と、階段を上って、降りて、また上って。
「……」
エレンは、しばらく黙って見ていた。
「ちょっと、何してるんだよ」
「おぉ、おはよう、エレン!」
豊が、振り返って手を振った。息が少し上がっている。でも、表情は至って元気だ。
「おはよう、じゃないだろ」
「いや、体が鈍ってしょうがなくてさ」
豊が、階段を一段降りながら言う。
「普段だったら、この時間はもう配達行ってるだろ?毎日動いてたのに、ここ数日は室内にいるばかりで」
「だから階段上り下りしてるの?」
「そう。でも、荷物なしだと軽すぎてな」
「それで壺?」
「米袋くらいの重さでちょうど良かったんだよ」
「いいから」
エレンが、一歩前に出た。
「その壺を、今すぐ下せ」
「え、でも——」
「今すぐ」
「……はい」
豊が、おとなしく壺を下ろした。ゆっくりと、床に置く。
エレンは、壺に近づいて確認した。ひびが入っていないか、欠けていないか。
無事だった。
深く、息を吐く。
「それ割ったら、いくらすると思ってるんだ」
「そんなに高いの?」
「この城に飾ってあるものが、安いわけないだろ」
「……そっか」
豊が、しょぼんとした。
「じゃあ、何か代わりになるものないかな」
「何が代わりになるんだよ」
「米袋が恋しい」
「米袋はない!」
エレンの怒鳴り声が、早朝の廊下に響いた。
壁際に控えていたメイドが、ぴくりと肩を震わせた。
「……あの」
メイドが、おずおずと口を開く。
「聖人様が、毎朝このようなことをなさるのは、今日で三日目でして……」
「三日目」
エレンが、豊を見た。
「三日もやってたの?」
「一日目は廊下。二日目は中庭。今日は階段にしたんだ。なんか、ちょうどいい感じで」
「なんでバリエーション増やしてるんだよ」
「毎日同じだと飽きるだろ」
「飽きる問題じゃない!!」
エレンは、額に手を当てた。
(どうしてこうなった)
「とりあえず、壺は元の場所に戻す」
「どこにあったっけ」
「私が知るか」
「一緒に探す?」
「探すことになったのは誰のせいだ」
「……俺」
「分かってるなら最初からやるな」
豊は、また少しだけしょぼんとした。
でも、すぐに顔を上げた。
「エレン、朝飯まだだろ? 一緒に食べようよ」
「……壺を戻してから」
「じゃあ、一緒に探そう」
「だから、なんで楽しそうなんだよ」
廊下の向こうで、夜明けの光がうっすらと差し込んできた。
メイドが、遠い目をしていた。




