第16話 すまない
「まだ世界樹の根元にすら辿り着いていない」
アイルの言葉に、結衣の顔が青くなった。
「……え」
「ごめんね、言いにくくて」
アイルが、慌てて補足する。
「でも、世界樹のところまで行けば道はだいぶ広くなるから。今よりずっと歩きやすくなるよ」
(風が強くなるし、視界も悪くなるけど——今はまだ言えない)
「……そっか」
結衣は、小さく頷いた。
山道を登り始めて、三日。
今日は天候が悪くて、半日ほどしか進めなかった。外は轟々と風が吹き荒れている。洞窟の奥から聞こえてくるその音が、やけに遠くまで響く気がした。
心が折れそうだ、と思った。
正直に言えば。
膝を抱えて、焚き火を眺める。炎が、ゆらゆらと揺れている。
今の結衣に、この道中でできることといえば——火種の代わりに、くず玄米を小さな炎にちょろちょろと入れることくらいだ。それでも、使い続けているおかげで、たまに普通の玄米が混じるようになった。
でも。
魔物が現れれば、アイルとキリが対処する。道に迷えば、キリが方向を示す。体の不調があれば、アイルが術式をかける。
自分は——ただ、二人の間に挟まれて、足を引っ張らないようについていくだけだ。
ため息が、自然に漏れた。
「辛いか?」
キリの声が、静かに落ちてきた。
「もし、無理だと思うなら引き返すのもありだ」
優しい声だった。いつもの淡々とした言い方なのに——どこか、気遣いが滲んでいる。
「ううん」
首を横に振る。
「……私、あんまり役に立てないなって」
環境が過酷だからなのか、魔物も動物も一切現れない。だから、命の危険という意味ではまだいい。でも——二人が自分を気遣っているのが分かるからこそ、やるせない気持ちが積み重なっていく。
「何言ってるの、結衣ちゃん」
アイルが、少しだけ怒ったような声で言った。
珍しい。アイルが、こんな声を出すのは。
「僕たちが結衣ちゃんの世界に投げ出された時——助けてくれたのは誰?」
「食べるものも、寝るところも、服も、全部結衣ちゃんや豊がいてくれたおかげでしょ?」
「……」
「俺たちの世界に来てしまったのなら、俺たちが助けるのは当然だ」
キリが、静かに続けた。迷いのない声だった。
「アイル……キリ……」
鼻の奥が、じんとした。
慌てて、膝に顔を埋める。見られたくない。泣きたいわけじゃない。ただ——
(あの時、二人を受け入れて、良かった)
心の底から、そう思った。
「二人とも……ありがとう」
くぐもった声で、言う。
しばらく、誰も何も言わなかった。
焚き火が、パチパチとはぜる。
風の音が、外で唸り続けている。
二人は何も言わなかった。
アイルとキリが、そっと結衣の頭に手を乗せた。何も言わずに、ただ、撫でた。
その温かさに、結衣は少しだけ深く息を吐いた。
警告音が、鳴り響いた。
ノクスの私室に設置された魔力供給装置から、甲高い音が走る。
「——!」
廊下にいた幹部たちが、一斉に動いた。
扉を開けると。
「魔王様!」
クロードが、声を上げた。
ベッドの上で、ノクスが体を起こしていた。両腕で体を支えているが、その腕が震えている。額に、うっすらと冷や汗が滲んでいた。息が、乱れていた。
「まだ動いてはいけません」
クロードが駆け寄り、ノクスの体を支える。
ノルティアが、装置の警告音を切りながら言う。
「無理に起きたら、また——」
「…リシェルを…っ…呼べ」
ノクスの声が、かすれながらも落ちた。
「しかし魔王様、御身の状態では——」
「命令だ‼︎」
普段の冷静さとは全く違う、剥き出しの声だった。
クロードは、一瞬だけ言葉を飲んだ。こんな魔王様を、百年の仕えた中で一度も見たことがなかった。
「……リシェル様を」
廊下に向かって、声をかける。
ほどなく、リシェルが扉をくぐった。
「魔王様。御身の前に」
静かに、跪く。
「…っ、夢渡しを、しろ。私の契約相手と——」
そこで、ノクスの顔が苦しそうに歪んだ。奥歯を噛み締めているのが分かった。
部屋の中が、しんと静まり返る。
リシェルが、そっとノクスの傍に寄った。
「"ユイ"という者ですね」
ノクスが、弾かれたように顔を上げた。その目に、余裕はなかった。起き上がっているだけで、全身を削っているはずだというのに。
「……やれ」
「かしこまりました」
リシェルが、手を広げた。
淡い紫色の光が、ノクスを中心にゆっくりと広がっていく。
二人から撫でられて安心したのか、結衣は束の間の眠りに落ちていた。
白いもやに包まれている。
(夢……?)
さっきまで洞窟にいたのに。そう思っていると、白いもやの中に動く影を見つけた。
「……だれ」
「結衣!」
その声に、全身が反応した。
「ノクス!!」
影に向かって、駆け出す。
次の瞬間、腕を引っ張られた。気づけば、いつかのように——ノクスの腕の中にいた。
「時間がない。結衣、無事か!?」
「う、うん。今はアイルとキリと一緒で——」
言い終わる前に、腕の力が強くなった。
「必ず、迎えに行く」
ノクスの手が、結衣の顔に触れる。上を向けば、ノクスはまっすぐにこちらを見ていた。
その目が、いつもと違った。
合理的でも、淡々としてもいない。ただ——真剣で、必死で、それだけだった。
温かい。
(ノクス)
でも。
それも、一瞬だった。
ノクスの輪郭が、ぼやけていく。
「ノクス!?」
白いもやが、また広がってくる。消えかけるノクスの口元が動いた。
すまない、と。
そう言ったように、見えた。
パチリ。
目が、開いた。
洞窟の天井が、視界に広がる。
「……あれ」
頬が、濡れていた。
手を当てると——涙だった。自分でも気づかないうちに、流れていたらしい。
目を擦っていると。
「そろそろ晴れそうだよ」
アイルの声が、外から聞こえてきた。
「今日中には世界樹のところまで行けるんじゃないかな」
「あぁ。結衣、起きたか?そろそろ——」
キリが振り返って、止まった。
結衣が、自分の手を見ていた。
正確には——手の甲を。
「……結衣?」
返事がない。
ただ、手を見ている。呆然と。
契約印が、なかった。
朝起きるたびに、そこにあったもの。ノクスと結んだ証。薄くはなっていても、ずっとそこにあったはずのものが——跡形もなく、消えていた。
「…………」
手が、震えた。
慌てて帳簿を開く。ページをめくる。
従業員一覧のページ。
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【従業員一覧】
■ノクス 役職:統括責任者
状態:不明 ・稼働率:不明 ・魔力残高:不明 ・現在地:不明 ・契約接続:接続切断
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「どうしよう……」
声が、かすれた。
「契約印が、消えちゃった……ノクスが……」
息が、苦しい。足元の感覚が、ない。
ポタポタと、涙がこぼれる。
さっき夢の中で会えたのに。必ず迎えに行くって言ってくれたのに。なのに——
「どうしたら……っ」
「まずい、パニックになってる!」
キリの声が、遠い。
「結衣ちゃん、息して!」
アイルが、何かを言っている。
でも。声が、どんどん遠ざかっていく。
帳簿の文字が、にじんで見えた。
結衣が初めてノクスと契約したのは、<現代編>1章11話です。
初々しい結衣と、通常運転のノクスのやり取りをご覧になりたい方は、ぜひそちらも読んでみてくださいね!




