第15話 知りたくなかった感情
馬を降りてから、三人は無言で進んでいた。
出発前に飲んだ風晶花の粉が効いているのか、”健脚”の力のおかげなのか——息が上がるようなことはなかった。体力的には、不思議なくらい動けている。
けれど。
「……っ」
道の端を見て、結衣は思わず内側へ寄った。
すぐ横が、崖だった。切り立った岩肌が、遥か下まで続いている。底が見えない。
体力的なしんどさとは全然違う疲れが、じわじわと積み重なっていく。精神が、じりじりと削られていく感覚。
「結衣」
キリが、一歩だけ近づいた。
「内側を歩け」
「う、うん……」
キリとアイルの間に挟まれて歩く。二人をつなぐ赤い紐が、時折結衣の視界に入った。万が一足を滑らせた時に、すぐ助けられるように——魔術で強化された紐だ。
(これがあるから、大丈夫)
そう思っていても、崖のそばを通るたびに足がすくむ。頭では分かっている。でも、体が言うことを聞かない。
どのくらい歩いただろうか。
少しだけ開けた場所に出た。
岩陰に、小さな洞窟のような窪みがある。雨や風も凌げそうだった。
「今日はここで野営しよう」
キリが言った。
「うん……」
結衣は、その場にへたり込むように座った。
「結衣ちゃん、お疲れ様」
アイルが、頭をそっと撫でる。
「よく頑張ったね」
「……うん」
深く、息を吐いた。声にならないくらい、疲れていた。体よりも、頭が。
パチパチと、焚き火のはぜる音が聞こえてくる。
キリが、手際よく火を起こしていた。アイルが、保存食を取り出す。簡単な食事を済ませると、洞窟の奥に布を広げた。
キリが、さっと手をかざす。布が光って、少しだけ膨らんだ。
「何もしないよりはマシだと思う」
触れてみると、ゴツゴツとした岩肌の感触が和らいでいる。
「ありがとう」
「眠れるなら眠っておけ。明日も早い」
「うん」
横になる。目を閉じる。
でも——眠れなかった。
焚き火の音。風の音。岩の冷たさが、布越しに伝わってくる。
もう一度、寝返りを打つ。
その時、左手の甲が目に入った。
契約印。
ずいぶんと、薄くなっていた。
(ノクス……)
そっと、指先で触れる。
初めて契約を結んだ日のことを、思い出す。
初めて人型になった姿を見た。片膝をついて。結衣の手の甲に顔を近づけて。
『いついかなる時も、稲宮結衣に我が力の全てを捧げることを誓う』
あの声が、耳の奥に残っている。
本来なら——もうそろそろ、契約更新の時期だった。
「そろそろ契約印を更新するか」という一言と、あの距離の近さと、名前を呼ばれた瞬間の感覚。
顔に熱が集まりそうになって、あの時は必死に平静を保おうとしていたのに。
今となっては、その瞬間が、恋しくてたまらなかった。
(馬鹿みたい)
契約更新が恋しいなんて、ちょっと前の自分が聞いたら信じないと思う。
でも。
胸の奥が、じんわりと痛い。
薄くなった契約印を、もう一度そっと撫でた。
まだ、繋がっている。帳簿が、そう言っていた。
(待っててね)
小さく、心の中で呟く。
焚き火の音が、静かに続いている。
そんな結衣の様子を、キリはずっと見ていた。
壁に背中を預けて、目を瞑っている。傍目には眠っているように見えるかもしれない。
でも——結衣が寝返りを打つたびに、薄目を開けた。
慣れない旅。野営。すぐ横が崖の道。
体力的には問題ない。風晶花の粉も効いている。健脚も機能している。
でも——それとは別の疲れが、結衣の体に積み重なっているのが分かった。
火の番をしていたアイルが、静かに立ち上がった。
結衣のそばに近づいて、そっと手をかざす。
淡い光が、ゆっくりと広がった。術式が展開されて——結衣の体に、静かに掻き消えていく。
途端に。
くたり、と。結衣の体から力が抜けた。
キリは、目を細めた。
意識を奪う術式だ。本来は戦闘時に使うもの——背後から不意をつく場面で使うことが多い。アイルのそれは、だいぶ弱められていた。それでも、眠れないでいた結衣には十分だったらしい。
アイルが、焚き火の前に戻ってきた。
「やっぱり、眠れるわけない、よね」
キリに向けた言葉だった。
「……ああ」
短く、頷く。
「まだ20年そこらしか生きていない人間だもん」
アイルが、静かに続ける。
「それも、あんなに平和な世界にいたのに」
「すぐに順応できるはずがない」
「あんまりやると耐性ついちゃうから、本当は自然に眠れるのが一番なんだけど……」
「いや、いい」
キリが、遮るように言った。
「まだ先は長い。ここで動けなくなっても、どうにもできなくなる」
アイルは、何も言わなかった。
ただ、焚き火を見つめた。
キリは、視線を結衣へ向ける。
眠っている。規則正しく、静かに。さっきまでの緊張が解けて、ようやく顔から力が抜けている。
左手が、胸のあたりに添えられていた。
(また、触っていた)
気づいていた。道中もずっと。崖のそばを通る時も、夜になってからも——結衣は、左手の甲を触る。
契約印を。
無意識に。怖い時に。不安な時に。
それがどういう意味なのか、キリには分かった。
それだけ、あの魔王の存在が、結衣の中で大きいということだ。
(だからこそ)
キリは、視線を焚き火に戻した。
この胸の奥に生まれた感覚を、できれば言葉にしたくなかった。名前をつけてしまったら、もう知らないふりができなくなる。
心臓を鷲掴みにされるような、この苦しさ。
(本当は、気づきたくもなかった)
パチパチと、焚き火がはぜる。
アイルが、チラリとキリを見た。
何も言わない。
でも——その目が、全部分かっている顔をしていた。
「……黙って見るな」
「見てないよ」
「見ていた」
「……ちょっとだけ」
キリは、また目を瞑る。
焚き火の音だけが、静かに続いた。




