雪柳 (硝子の向こう)
「葵さん」
差し出されたマグカップを受け取ると、ふんわりと甘い香りが漂う。
「ココア?」
「好きでしょう」
「…ええ、ありがとう」
ゲーム会社で働く彼のほうが私よりよほど忙しいのに、と申し訳なさを感じていたのが伝わってしまったのか、マグカップをテーブルに置いた途端彼の腕のなかに閉じ込められてしまった。
「あのね」
「うん」
「雪柳、嬉しかったのよ」
「よかった、です」
彼女がくれたもののひとつだったから。
それを忘れなくてもいいと受け入れてもらえたような気がして、だから本当に嬉しかったの。
「粉雪だって、言ってましたけど、羨ましいです」
「え?」
「だって僕はその頃の葵さんを知らないし…」
本気で拗ねているのだとわかって、おかしくてかわいくて。
「なあに、それ」
つい笑ってしまう。
私もね、私も貴方の学生時代を沢山知っているご友人方が羨ましい。
ああ、そうだ、結婚式。
彼女は呼べるだろうか。呼べたらいいのに。
彼女がどこの誰か、知っている。
白崎ゆき、彼女の家のことは詳しくないけれど、あたりならついている。
けれど、それはあまりにも遠い場所だった。学生時代、彼女と自分の間にそこまでの距離があることを知らなかったし、きっと彼女も感じさせないようにしていたのどろう。他のどの子たちも多かれ少なかれ進路によっては距離があいた。
中流家庭の、由永川で学べる内容に惹かれて入学した私はお嬢様ばかりの学園でどのように見られていたのだろう。
「再来年には式ができるといいんだけど」
「晴れるといいですね」
「まだ日付も決まってないのに」
「まあ…でも、そのほうがいいです」
「あ」
春を知らせるように咲く雪柳。
会社への通り、新しくできたマンションの植え込みに咲くそれを見て納得した。見覚えのある木だとは思っていたけれど、花が咲く前の雪柳はあんな姿をしていたのか。
「…これが、私…」
静かに降り積もる雪みたいに、きらきらで綺麗なんだよ、真っ白な言葉が降ってきて、私は正しい答えを探して「ゆきは今日もかわいいわ」だとか「うれしい。ありがとう」と吐き出していた。
今ならなんと答えただろう。
「あなたのほうが相応しいわ」
そう答えたときもあった。けれども違う、結局は。
「私から見たゆきは今日もとてもかわいいわ」
そう、きっと、これがいい。
「え、」
悠長にしている暇はない。立ち止まっていた分、早歩きで葵はその場を後にする。丁度マンションから出てきた彼女を取り残して。
「え〜〜」
ずるずるとしゃがみ込みたい気持ちを堪えて、ゆきは耳を赤く染めた。
「葵ちゃんは相変わらずきらきらできれーだねえ」
甘くて苦い声色に込められた思いは複雑で、けれど歩き出す彼女の足取りは軽く、反対側へと続いていく。
「貴女の方がずっと相応しいよ」
霞のように淡く、遠く。
「永嶺さん、こないだはありがとう」
「いえ。こちら今日の資料です」
「先輩すみません、あの、さっきの書類間違えて…」
「次気をつけてくれればいいから。大丈夫、こっちとここ、は二度チェックで、後はファイルを見るか聞いてくれれば答えるわ。ね、大丈夫」
新卒が入り慌ただしい。
この時期は学生時代を思い出して逃避したくなるほどで、勿論そう長くはゆるされない。
取引先へのメール、電話対応に資料の確認。
明日の休日は絶対に休む、葵は強く決意した。
疲れた脳を糖分で誤魔化し、カフェの椅子に背を預ける。
「今日の夜、少しでいいので会えませんか」
いくつか向こうの窓際の席に座る男性の通話、その先の声が。
「ええ、もちろん。ありがとうございます…ゆきさん」
彼女だ、と思った。
けれどここに彼女本人はいない。いきなり声をかけることは躊躇われる。
はあ、と息を吐き出して葵はフラペチーノを飲み干した。
やめよう、なにせ確証はないのだから。
ああ、だけど。
もし彼女なら、元気そうでよかった。
容器を捨て外へ出る。この後の時間を確認しようとして、スマホを席に置いてきたことに気がついた。やはり動揺していたらしかった。慌てて戻ろうとすれば、同じように慌てた様子の男性が走ってくる。
「スマホ忘れてますよ」
「…」
先程は後ろ姿しか見ていなかったが、あの男性だ。
「…あの?」
「あ、りがとうございます。すみません」
「いえ」
電話がかかる。
男性は立ち止まり、出た。
『ごめんなさい、父が折角ならうちで食べていけばいいって。遼河さんにも都合があるからって言ったんだけど、どうかな』
「ゆき」
「え?」
『……遼河さん、今日、光田自動車の本社に行ってるんだったよね?』
漏れ聞こえる声はあやふやだ。それでも彼女だと今度は確信した。こちらをみてくる男性に苦く笑う。
なんの説明もできない、どんな言葉も当てはまらない、そもそも説明できるような前提を持った関係ではなくなってしまっているのだから。
電話が終わったらしいその人は、自身を古町遼河と名乗り。
「ええと…すみません、彼女が、ああ、…ゆきのご友人、ですか」
「ええ」
「そうですか。……あ、」
「…?」
「いえ、なんでも。永嶺さんでいいんですよね?」
「はい。永嶺葵と言います」
名刺を差し出して名乗ると、向こうも名刺を出してもう一度名乗り合う。
「いつもの場所で待ってる、と言えば伝わると。すみません、後がありますので…これで、」
「いえ、こちらこそすみません、突然。本当に…」
「いえ」
「いえ…」
頭を下げて去っていく。
いつもの場所で、それは、それが叶っていたのは女学院に通っていた間だけのこと。
また明日ねを繰り返していた、あの場所しか思い当たるものなどなかった。
休むと決めた休日を費やして由永川駅まで葵はやってきていた。今日いる保証はどこにもない。どこにもないけれど、待っていると言ったなら、彼女のことだ、嘘はつかない。
並木道を歩く。白い日傘をさした女性が、いた。
くるくるくるりと回して、揺れる木々の木漏れ日を浴びて微笑む、どこか霞がかったその人は「見つかっちゃった」と笑って、葵を呼ぶ。
「ね、天気いいね」
「……」
何を言いたかったのか、何をいうために来たのか、どうしたかったのか。
何もわからない。何も出てこない。
ただ、林檎の花の香りが、あって。
「どうして、だって、」
「私ね、葵ちゃんの絵をみたよ。繊細できらきらで、よかったなあって思ったの。勝手でしょ?」
「…ゆき、の、…ルイナのホームページ、ゆきのデザインだと思ったんだけど、違う?」
「違わないよ」
変わらない。
変わらないままの温度で彼女は笑う。くすくすと、穏やかに。
あの頃からずっと地続きだったみたいに、ここにいる。
「私、結婚したの」
「…そっか、おめでとう」
「私の絵を描いた人と、それで」
「うん」
「結婚式、来てくれる…?」
冷たい風が二人の隙間を抜けていく。
「うん」
微妙な距離はあいたまま、それでもここにいることがただ嬉しい。
「もう〜大丈夫だよ、ね、大丈夫」
頬を拭われて、泣いていたことに気がついた。
ふわりふわりと、困ったように眉を下げてハンカチで優しくとんとんと。
なんてずるいのか、なんて酷い。
「ゆきがこんなにずるいなんて、はじめて知った」
「私も葵ちゃんの知らないところ、あとでいっぱい見つけたよ」
それならあれは、まだスタートにも立てていなかったのね。
ねえ、それなら。
今からをスタートにしたいわ。
ここから、ここからではじめるの。
「友達よ、ずっと、変わらず」
「…そうだよ、ずっと前から」
「結婚式、絶対よ」
「ね、葵ちゃん。みつけてくれないの?」
「…なあに、それ」
「だってほら、大事だよ」
「みつけた、見つけた。見つけたわ」
「見つかっちゃった。ね、」
「もう、ほんと、」
怒りたかったのに、怒り方も忘れてしまって。
「行くよ、絶対」
怒りたかったのに、嬉しいから怒れなくて。
「よかったね、葵ちゃん。おめでとう、ほんとうに、よかったね」
向けられた眼差しも音色も優しくて、そうだ、ずっと、あの頃からこれを向けられていたのだとようやく、ようやく気がついた。
「葵ちゃんはやっぱり、きらきらできれーだねえ」
「泣いてるのに」
「きれいだよ、どんな姿だって。私の目を奪うほど、私が眩しく思うくらい、今日もきれいで、大好きよ」
「ひどい」
「そうでしょう」
「ゆきは今日もかわいい、わ」
「そうでしょう」
足りなくて足りなくて仕方がないのに、あなたが笑っている、それだけで満足してしまうから。
きっとこれは、私の勝よ。
・山本大智
葵の一つ歳下。
妹からの招待で由永川大学の学園祭に行き、そこで出会った葵を「綺麗な人だね」と言ったらあれよという間に妹に連れられてご挨拶していた。絵画が好きな友人の影響で、と興味津々で聞いてくれる葵を意識するようになり、気がつけば好きになっていた。アプローチはかなり頑張った。告白もプロポーズもちゃんとした。えらい。




