硝子の向こう (絵画)
蝉の声がする。
陽炎が揺れて、じりじりと焼かれる暑さに目眩がする。
川の水は冷たくて、子どもらの声は明るく日常は穏やかで。
「お祖父様、少し席を外しますね」
「ああ、ゆき、隆明を呼んできてくれ」
「はい、わかりました」
やれこの朝顔はどうとかああとか、これは花の開きが、なんて話し込んでいるお祖父様に声をかけてその場を離れれば少しは涼しくなった。
日陰とはいえ、あまり浴びているのはお祖父様の身体にとっても良くない。早いところ父をみつけて室内での観覧に持ち込んだほうがいいだろう。
父をみつけてお祖父様のもとへと送り出し、自動販売機の横のベンチに座って一息つく。
慣れているとはいえ、こういった催しは疲れる。
学生の頃を思い出すと随分楽だったなあ、なんて。
「白崎…さん…?」
通り過ぎていくかと思ったら声をかけられた。
あの頃はどうしていたんだったか、思い出しながら笑ってみる。そう、たしか、もっと…ふわふわと笑うのだ。
「え、え〜!咲花ちゃん、久しぶり〜!」
「久しぶり!っていうかゆきちゃん今何してるの?」
「今、は」
答えるべき言葉を選ぶ。
「お祖父様の会社でお勉強させてもらってるよ。咲花ちゃんは?」
「外資系の会社で。ってもしかして、」
「ん〜ふふ、そっかあ…咲花ちゃんも朝顔を観に来たんだ?花笠の朝顔が気に入ったんだけど咲花ちゃんはどう?気に入ったのはあった?」
ここでお祖父様の話を持ち出されるのは困る。
それは三嶋さんも同じだろう。
「あ、えーと、姫…姫氷子の朝顔で、色が真青のが綺麗だったかな」
「綺麗だったね」
「うん」
随分と合っていないから話し方を忘れたみたいに、鈍く、温い。
「みんなさ」
「うん」
「白崎さんの連絡先とか知らなくて、」
「…ちょっとごたついてたから。ごめんねえ」
「ああ…いや…そう、だよね」
嘘ではない。
丁度母がお祖父様から家に帰ってこいと言われていた頃だ。
縁をきったのはお祖父様だったというのに、やはり娘が可愛かったのだろう。父の会社が少しばかり不安定だったから、きっと、それで。
「永嶺さんとは…その、どう?」
「どうって?」
「連絡とか」
「…元気にしてたらいいなあって思うけど…」
「ゆきさん、お呼びです」
どう濁すべきか迷っているとお祖父様の秘書が呼びに来た。置いていた日傘を手に取り広げる。数歩進んでそっと手を振れば、三嶋さんは呆気にとられた様子でおそるおそる手を振り替えしてくれた。
「またね」
「……ま、たね」
ひとつ終えてもまた次があるもので、今度は父の部下をうちに呼んでの食事、お酒が入る頃に退出してようやく戻ってこられた自室のベッドに倒れ込めば、あの絵画が目に入る。
菜の花畑、青い空に映える黄色は絵本のような優しいタッチで、とてもきれい。
三嶋さんには誤魔化したけれど、すれ違うだけなら何度かあった。
例えばあの青年と笑っていたり、ショーケースの前で悩んでいたり、それこそ今日のように仕事の途中で見かけたり。
そう、今日も、いた。
だからこそ三嶋さんは声をかけてきたのだろうし、何かを私から聞き出そうとしたのだろう。
でも彼女ももう声をかけてくることはないと思う。
それぐらい、私と彼女が身を置く場所は違う。
それは私が望んだものではないけれど与えられたものだ。
次は花屋でバイトとかしようかな。
この歳になってそれは怒られるだろうけど、やってみたかったことはそういう素朴なものだったのに。まあ、いいか。
それが私の人生に必要だとは言い切れないなら、お祖父様の望むように働いて結婚してもいい。
「葵ちゃんは、」
あの絵を描いていた青年と上手く行っているだろうか。
仲良くしているといいな、だってあんなにも柔らかく彼女を絵に綴じられるのだ。それはとても素敵なことで、ありのままの彼女でいられるということだから。
伸びをしてスマホへ手を伸ばす。
カレンダーアプリを開けば広がる予定に続く予定、さらに予定。お祖父様の選んだ人との食事、付き添い、お祖母様のお見舞いにお母様とのお茶会、それから観劇とピアノの演奏会。
パソコンを開けば作りかけの資料とデザイン案が出てくるはずで、机の上は参考書に埋もれている。
現実とはままならないものだ。
ゲームアプリのアイコンをタップして開く。箱庭ゲームにいくら課金したことだろうか。なんだか本当に、遠くへきたのだなという気になった。やりたい事などあったのだろうか。
「お嬢さま、今いいですか?」
ああ、ほら、厄介事。
「すぐいきます」
髪をとかしカーディガンを羽織って出ればお父様の部下の方が頭を下げてくる。
「古町さん、どうしたんですか」
「ご挨拶をしておこうと」
「そんな、お気になさらず。でも、ふふ。父も古町さんには助けられていると…これからもよろしくお願いしますね?」
「はい、いえ、はい」
見送って、部屋に戻る。
形にはめられている、とわかっている。
そのほうが楽だ、と思う。
父は若くて有能で見どころのある、何より家柄も良い彼を私にあてがいたいのだろう。これはお祖父様もお認めになっているのではないだろうか。お母様が何も言わないのがその証拠だ。
正直、古いと思う。
それでも、まあ、この恩恵を受けて生きているからには当然だろうとも思っていて。
彼女の不自由さをつついた理由も、今にして思えば自己投影をたぶんに含んでいたのかもしれなかった。
「めんどうだなあ」
面倒だから、やっぱりバイトとか、しちゃおっかな。
詰め込まれそうになった予定のいくつかをお断りしてお見合いの束から逃げ出して、両親の連絡は知らんぷり。
お祖父様には息抜きですよと笛吹いて始めた花屋のバイト。
重いバケツに段ボールに花。
朝は早いし重労働だけれど気分がいい。
お祖父様や父の仕事も手伝っているけれど、このバイトを始めてから随分たった。
「リボンはどうされますか?」
「あ、じゃあ青で」
「はい。ではこちらで」
くるくると花を包み、リボンで飾る。去っていく後ろ姿に頭を下げて、飾られる花束におもいを馳せて、また仕事に戻る。
「あのーすみません、依頼していた山本なんですが…」
「ああ、はい、山本さん」
顔を上げて、あっと思った。
絵だ、あの青年がそこにいて、それから依頼された花束のデザインと要望を思い出して、誤魔化すように笑った。
「メールで確認させていただいた通り、こちらのデザインでお作りしようと思っているのですが、大丈夫でしょうか?」
「はい、大丈夫です。あ、でも」
「どうかなさいましたか」
「雪柳をいれたくて」
「では緑を増やしましょうか。いまのデザインだと少し目立ってしまいますから」
少々お待ちください、と声をかけて組んであった花束を少し調整していく。
白と緑、それからピンク色で統一されたデザイン、いれる花はカスミソウとピンクの薔薇とマーガレット。そこに雪柳をいれるならカスミソウは少し減らして、と。
「リボンは黒でお間違いないですか?」
「はい」
花言葉も、デザインの方向性も。
依頼されたときの願いも。
「こちらで大丈夫ですか?」
「…っあ、は、い、大丈夫です。すみません、ありがとうございます」
料金をいただいて、袋に入れて花束を渡す。
緊張した面持ちは今からでは早いと思うけれど、うまくいくといいなあ、と願った。
「あの、ありがとうございました!」
「またいつでも来てくださいね」
雪柳。
昔、彼女を粉雪に例えたことがあった。
雪柳のようだと例えたことがあった。
そうしたら、彼女は私のほうがそうだろうと返してきたのだったか。なんだか懐かしくて、おかしい。
雪が降り積もった姿から例えたそれは今ならきっと別の意味を持つ。だから、そう、それはとても喜ばしくて。
少しだけさみしい気がした。
バイトを辞めた。潮時だったともいうべきか。
古町さんに送られて家へと帰る。
植物園デートに付き合ってくれるこの人は、随分いいお相手なのかもしれない。
ふと花屋の前を通って、みた。
彼女と彼が花を選んで笑っていた。
信号が変わり車がとまる。まだ待って、まだ。まだ。
引き抜いた花を手に持つ彼女の薬指に、指輪。
石が何かは見えないけれど、眩しくて。
「知り合いですか?」
「ふふ、はい。学生時代の」
「ゆきさんは由永川でしたよね」
「ええ。…とってもすてき。よかったな」
「よかったですね」
よくわかっていないだろうに、私を眺めて彼が穏やかに笑う。
信号が切り替わって動き出す。
流れている音楽は私が好きなジャズで、出会った頃はしていた煙草の匂いも消えている。
そうだね、きっと。
「次は古町さんの行きたいところを教えてくださいね」
「じゃあ、絵画の解説をお願いしてもいいですか」
「得意分野です。いいの?」
「もちろん」
「楽しみだなあ」
言葉を崩して笑うと、彼はぽかん、として。
それからおずおずと「俺もです」と返ってきたから、私はこの人を選ぼうと思った。
お祖父様でもお父様でもなくて、私が。
ねえ、よかったね。
よかったな。
・古町 遼河
鷺沼グループの大手企業で働く、子会社の社長息子。
三男坊。上昇志向は特になし、野心もない。
ゆきとのお見合いに近い何かや上からの圧に対しては程よく対応していたが、そのうち本気でゆきを思うようになった。ので、上昇志向も湧いたし野心もある。ゆきに合わせて上品ぶっている。




