第8章 8万人が低湿地に集まります。 帝国軍がまた攻めてきた。
第8章 8万人が低湿地に集まります
7月。
「陛下。帝国の工兵が峠道の工事を始めました」
離宮の執務室で、近衛兵が報告します。
「本隊は?」
「まだ後方です。8万人を一度に進められないので、各地に分散したまま近づいております」
「先に道を広げるのですね」
「はい」
王国と帝国の間には、火山性の堰止め湖からできた低湿地が広がっています。その中には8万人が集結できるほど広い乾燥地もありますが、その先で道は峠へ入り、一気に狭くなります。
「今の道幅だと、武装した兵は2列ですね」
「はい。武器を持たない人なら3列で歩けます。小型の荷車も通れます」
「でも、8万人と大量の荷車を通すには狭い」
「帝国軍は4列縦隊で歩けて、荷車も流せる幅まで広げるつもりです」
カタリナは地図の切り通しを指します。
「平らなところだけなら簡単でしょうけれど、ここは?」
「崖と切り通しがあります。特に切り通しは岩を削らなければ広がりません」
「王国にはできなかった工事ですね」
「できませんでした。あそこまで広げるために税を使う理由もありません」
「帝国がやってくださるのですね」
近衛兵が少しだけ笑います。
「侵攻のためですが」
「それでも、工事そのものは立派です」
◇ ◇ ◇ ◇
帝国の工兵は速く働きました。
「切り通し、あと2間!」
「崖側へ出しすぎるな! 山側を削れ!」
「荷車、通して確認します!」
岩を割り、土を運び、路肩を固めます。
王国なら何年たっても予算がつかないような工事を、大国の工兵隊は人と道具を集中させて進めました。
2週間後。
「陛下。工事が終わりました」
「2週間ですか」
「はい。4列縦隊で進めます。荷車も通せるそうです」
「さすがですね」
「敵ですけれど」
「敵でも、よい仕事はよい仕事です」
「本隊も動き始めています。低湿地の乾燥地へ集結を始めました」
「全員が入るまで、どのくらいですか」
「あと数日です」
カタリナは、少し考えます。
「少しずつ峠を越えられるのは嫌ですね」
「400人で止めるのは難しいです」
「では、道に待っていただきましょう」
◇ ◇ ◇ ◇
カタリナは、その日だけ峠の王国側まで出ます。2週間の工事を終えた切り通しは、見事に広がっています。
「右の岩と、左の岩」
カタリナは両側を見ます。
「岩石同士なら、密度比はほぼ1ですね」
「陛下、何をなさるのですか」
「交換します」
切り通し右側の岩石の一部と、左側の同じ体積の岩石が入れ替わります。見た目にはほんの一瞬ですが、次の瞬間には低い音が続きます。
交換された岩は同じ体積の空間へ収まっても、周囲の母岩と再び一体化するわけではなく、境界はそのまま新しい割れ目になります。重さを支えていた岩盤の連続が切れ、大きな岩塊がずれると、その動きにつられて下の岩も動きます。
「崩れます!」
「離れてください」
岩塊が切り通しへ落ちると、その上まで続けて崩れ、2週間かけて広げた道は岩石で埋まります。
「これで、全員が低湿地へ入るまで待てます」
◇ ◇ ◇ ◇
「何をやった!」
帝国軍の工兵隊長が怒鳴られています。
「完成検査では問題ありませんでした!」
「完成した翌日に崩れる道のどこが問題ない!」
「岩盤の内部が――」
「楽をして斜面の角度を立てすぎるからだ!」
「切り通しなので、削る量を減らさないと2週間では――」
「その結果がこれだろう!」
工兵隊長は言い返せません。現場には交換転移を見た者が1人もおらず、大急ぎで広げた切り通しが崩れた以上、工事を急ぎすぎたと考える方が自然です。
「直すのに何日かかる」
「3日です」
「3日も?」
「今度は斜面を寝かせます。崩れた岩も除かなければなりません」
「本隊は明日には全部ここへ来るぞ」
「承知しております」
「なら急げ!」
◇ ◇ ◇ ◇
翌日には、8万人が低湿地の乾燥地へほぼ集まります。
「全軍集結です」
「道は?」
「あと2日です」
「8万人をここで2日待たせろと?」
「工兵隊は昼夜で作業しています」
乾燥地には8万人分の天幕が次々と立ち、馬がつながれ、荷車が道沿いを埋め、あちこちの炊事場から煙が上がります。広さは足りても、大軍の宿営を支える設備は乏しく、部隊が増えるほど食料と飼料の運搬が忙しくなります。
「食料を前へ回せ」
「飼料も足りなくなります」
「2日だ。もたせろ」
帝国軍は待ちました。
◇ ◇ ◇ ◇
カタリナは帝国軍が来る前から低湿地を調べており、水際には赤紫色や緑色の膜が広がる場所があり、沼のあちこちから泡も上がることを確認していました。
「紅色硫黄細菌と緑色硫黄細菌ですね」
同行した近衛兵が首を傾げます。
「細菌なのですか」
「はい。硫化水素を使って光合成する細菌です」
「植物とは違うのですか」
「植物のように酸素を出す光合成とは違います。硫化水素を使って、硫黄を作ります」
カタリナは色のついた水面を見ます。
「だから、下から供給される硫化水素の一部を、この細菌たちが使ってくれます」
「カニもいますね」
「はい。水の中にはカニが生きられる場所も残っています」
さらに泥の底には酸素の少ない場所があり、そこにはメタンを作る細菌もいます。
低湿地全体はおよそ20平方キロメートルあり、カタリナはそこにある硫化水素の量を把握していました。
◇ ◇ ◇ ◇
「開通しました!」
3日目、帝国工兵は崩れた切り通しを通れる状態まで戻します。
「先行隊、前へ!」
工兵と護衛兵が峠を登り、頂上の国境を越えて王国側へ足を踏み入れます。
離れた場所で見ていた王国兵が、合図を送ります。
「陛下。帝国兵が王国領へ入りました」
「確認しました」
カタリナは、そこで初めて低湿地へ視線を戻します。8万人の大半は、まだ帝国領側にいます。
先に低湿地の本隊を攻撃すれば、まだ国境を越えていない軍を王国側から攻撃した形になります。だからカタリナは、工兵と護衛兵が武装したまま国境を越え、王国領への侵攻が実際に始まるまで待っていました。
前世の感覚でいえば、自国へ向けて弾道ミサイルが撃たれたあと、その攻撃を支える敵国内の発射基地を叩くのと同じです。国境の向こうにいる8万人は、いま始まった侵攻を支える本隊でした。
「始めます」
低湿地から硫化水素を抜きます。
交換する相手は、8万人の部隊の周囲にある空気のうち、酸素とアルゴンです。
硫化水素と酸素・アルゴンの混合気体なら密度比はほぼ1なので、窒素はそのまま残します。
「濃度は0.1%まで」
「それ以上にはしないのですか」
「あとでこちらが困ります」
カタリナは、そこで止めました。
◇ ◇ ◇ ◇
「……臭くないか?」
帝国兵の1人が鼻をしかめます。
「沼だろ」
「卵が腐ったみたいな臭いだぞ」
「この辺りはずっと沼だ。今さら何を言っている」
別の列でも声が上がります。
「馬が騒いでる!」
「押さえろ!」
「なんだ、この臭いは!」
しばらくすると、最初に感じた臭いを感じなくなる者が増えます。
「……消えた?」
「風向きが変わったんだろ」
「さっきより臭わない」
その近くで、兵士が1人倒れました。
「おい!」
「衛生兵!」
別の場所でも、続けて兵士が倒れます。
「ここを離れろ!」
誰かが走り始めました。
「待て!」
「逃げろ! ここはおかしい!」
「隊列を崩すな!」
司令官が馬上から怒鳴ります。
「逃亡するな! 持ち場を離れた者は――」
大声を出すために大きく息を吸ったところで言葉が途切れ、司令官はそのまま馬から崩れ落ちます。
「司令官閣下!」
「行くな!」
「逃げろ!」
そこで統制が切れ、兵が一斉に走り始めます。低湿地の出口は遠く、8万人が同時に動けば道も空き地もすぐに詰まります。荷車が倒れ、馬が綱を切り、鎧や荷物を捨てて走る者まで出ます。
「大きく息を吸うな! 走れ!」
何人かの目には、目の前の峠だけが逃げ道に見えます。上へ行けばいいと、それだけを考えて切り通しを越え、国境を越えて王国側へ下り始めたところで、王国兵が待っています。
「武器を捨ててください!」
「助けてくれ!」
「剣を置いてください!」
数人が剣を投げます。
「上着も脱ぐ!」
帝国兵の1人が自分から外套を外します。
「布の繊維に臭いが残ってる!」
王国兵は距離を取ったまま指示します。
「武器から離れてください。そのままこちらへ」
数人だけが、生きたまま王国側へ入りました。
◇ ◇ ◇ ◇
30分ほどして、カタリナは交換を戻します。
部隊の周囲に置いた硫化水素を低湿地へ戻し、代わりに酸素とアルゴンを元の場所へ返します。
「これで終わりです」
「近づいてよろしいですか」
「少し待って、風を通してからにしてください」
しばらくして王国側の斥候が低湿地を確認し、短い報告を持ち帰ります。
「陛下。兵士で動いている者は、ほとんど確認できません」
「馬は?」
「半数以上が生きています。綱を切って外へ走ったものもかなりおります」
「捕まえられる馬だけ確保してください。追い回して事故を起こさないように」
「承知しました」
「王国側へ逃げ込んだ兵は?」
「数人です。全員武装解除し、拘束しております」
「治療をしてください。話を聞くのはそのあとです」
「はい」
◇ ◇ ◇ ◇
「遺体を急いで処理します」
カタリナが言います。
「7月です。ここへ置いておけません」
「前回のように海へ?」
「今回は沼がすぐそばにあります」
「浅いところへ入れると見えます」
「だから、深いところです」
カタリナは低湿地の中央寄りを指します。
「水面ではなく、泥の底に近いところのH₂Oと交換します」
「泥そのものではなく、水だけですか」
「はい。遺体だけを、深い泥の中にある水と入れ替えます」
「浮いてきませんか」
「泥の中です。それに、この沼にはカニがたくさんいます」
「カニが?」
「遺体に穴を開けます。腐敗で体内にガスができても、たまり続けにくくなります」
「先ほどの硫黄細菌がいる沼に、カニもいるのですね」
「硫黄細菌が硫化水素を使ってくれますから、水の中にはカニが暮らせる場所も残ります」
近衛兵は低湿地を見ました。
「泥の底にはメタンを作る細菌もいる、と」
「はい。それは、底が酸素の少ない泥だという話です。浮くかどうかとは別です」
「分かりました」
カタリナは、沼底の深い泥の中にあるH₂Oと遺体を順に交換していきます。遺体が横たわっていた地面には沼底の水が広がり、代わりに遺体は外から見えない泥の奥へ収まっていきます。
低湿地には大量の装備と荷車、生き残った馬が残ります。帝国が動かせる8万人は王国へ本格的に入る前にほとんど失われ、王国領へ逃げ込んだ数人だけが、その日何が起きたのかを話せる帝国兵になりました。




