第7章 5万人はどこへ行ったのですか。 帝国は行方不明の大部隊を捜索します。
第7章 5万人はどこへ行ったのですか
「陛下。帝国側から、騎兵を中心にした部隊が来ています」
離宮へ戻った国璽を届けた近衛兵が、地図を机に広げます。
「人数は?」
「およそ1000人です。主力軍という規模ではありません」
「威力偵察でしょうか」
「その可能性が高いと思います。低湿地までは入ってくるでしょう」
カタリナは、地図の上にある国境の峠を見ます。
帝国側には、火山性の堰止め湖からできた広い低湿地があります。その先の峠を越えれば王国領です。国境は峠の頂上でした。
「峠を越える前に、見せたいものがあります」
「何を置きますか」
「帝国陸軍5万人を帝国海軍へ転属させた書類の写しです」
近衛兵が一度だけ目を瞬きました。
「例の転属命令を?」
「はい。帝国の行政官が帝国式の書式で作ったものです。部隊ごとの一覧も全部つけてください」
「王国側の文書も置きますか」
「短い確認書だけで構いません。『記載された部隊は海方面へ移動した』と書いてください」
「海へ送った、とは書かないのですね」
「事実だけで十分です」
「原本は?」
「離宮で保管します。置くのは写しです」
「承知しました」
近衛兵が紙をまとめます。
「掲示する場所は、低湿地の乾燥地へ入る前でよろしいですか」
「はい。国境よりずっと手前です。こちらへ入る前に読めるようにしてください」
◇ ◇ ◇ ◇
帝国軍1000人は、低湿地へ入る手前で止まりました。
「なんだ、あれは」
道の脇に大きな板が立っています。先頭の士官は馬を降り、部下2人を連れて近づきます。
「帝国軍の書式です」
「見れば分かる。問題は中身だ」
紙を1枚ずつ確認します。
「第3歩兵師団、第7歩兵師団……主力の部隊名が全部あるぞ」
「転属先、帝国海軍」
「海軍?」
「5万人全部です」
士官は何度も印章を見ます。
「偽造に見えるか」
「書式も部隊番号も合っています。少なくとも雑に作った偽物ではありません」
その下に、王国側の確認書があります。
「『記載された部隊は海方面へ移動したことを確認する』」
「海軍が5万人を受け取ったというのか」
「陸軍へ一言もなく?」
「海軍が5万人も何に使う」
「上陸部隊にでもするつもりでしょうか」
「それなら、なおさら陸軍へ連絡があるはずだ」
別の士官が低い声で言います。
「海軍が、陸軍へ連絡したくない理由があるなら別です」
周囲が静かになります。
「独立でもする気か」
「決めつけるな」
「でも、5万人ですよ」
1000人で、正体の分からない5万人へ不用意に近づくわけにはいきません。指揮官は峠を見上げます。
「本隊はここで待機する。体力のある士官と下士官を10人選べ」
「峠を越えますか」
「越えない。頂上が国境だ。そこまで行って見る」
「承知しました」
「王国領へ1歩も入るな。見えるものだけ確認して戻れ」
◇ ◇ ◇ ◇
10人は馬を途中に残して峠を登り、国境になっている頂上で足を止めます。そこから王国側へは下りません。
「王都が見えます」
「街道を見ろ」
望遠鏡を持つ士官が、道の色の違いを追います。
「大軍の行軍跡があります。王都へ向かう方です」
「5万人のものか」
「規模としては、それくらいあってもおかしくありません」
「外へ向かう跡は?」
「あります。こちらもかなり大きい」
別の下士官が王都の外を指します。
「あれは収容所でしょうか」
柵と多数の天幕があります。
「人数は?」
「遠いので正確には分かりません。500から1000くらい」
「王国の王都守備兵と同じくらいじゃないか」
「では、王国兵を捕虜にしたのか」
「陸軍主力が占領したあと、海軍が引き継いだ?」
「それで5万人を海側へ動かした、と考えればつながります」
士官はしばらく黙っていました。
「もし海軍が王都を押さえているなら、あの捕虜を抱えていてもおかしくない。補給を準備した作戦なら運べる」
「こちらは1000人です」
「分かっている。これ以上見る必要はない」
10人は国境を越えず、そのまま引き返しました。
◇ ◇ ◇ ◇
低湿地の乾燥地まで戻ると、10人はそのまま威力偵察隊の指揮官の前へ呼ばれました。
「王国領には入りませんでした」
「それでいい。順に話せ」
士官は、峠の頂上から見えたものを地図へ書き込みながら報告しました。
「王都へ向かった大軍の行軍跡があります。規模は5万人でもおかしくありません」
「戻ってくる跡は?」
「あります。王都から外へ向かう大軍の跡です」
「掲示板の書類と合うな」
「はい。それと王都の外に、500から1000人ほどの収容所らしいものがありました」
指揮官は、掲示板から写してきた書類を机に並べました。
「陸軍5万人を海軍へ転属。王国側の確認では海方面へ移動。王都へ入った跡と、王都から出た大軍の跡。さらに捕虜収容所か」
「王国の王都守備兵を海軍が捕虜にした、と考えれば数字も合います」
「だが、海軍が何をしているのかは分からない」
「はい」
「1000人で確かめに行く相手ではないな」
「もし本当に5万人がいるなら、こちらが峠を越えた瞬間に終わります」
指揮官はしばらく地図を見ていました。
「威力偵察はここまでだ。書類の写しも持って、全隊を連隊まで戻す」
「国境は越えませんか」
「越えない。見えるところまで見た。これ以上は偵察ではなく賭けだ」
1000人は低湿地から引き返しました。
◇ ◇ ◇ ◇
後方の連隊司令部では、連隊長が報告を最初から聞き直しました。
「つまり、お前たちは海軍兵を1人も見ていない」
「はい」
「5万人の兵そのものも見ていない」
「はい。ただし行軍跡はあります」
「王都へ入る跡と、出ていく跡の両方がある」
「その通りです」
連隊長は、帝国軍の正式な書式で作られた転属書類の写しを何度も読み返しました。
「これを偽物だと言い切れる材料はあるか」
「ありません。書式も印もおかしくありません」
「では本物として考えるしかない。だが、陸軍5万人を海軍へ移して王都まで使うような話を、こちらが何も知らないのもおかしい」
「現地で海軍が独自に動いた可能性はあります」
「それなら、もっと悪い」
連隊長は別紙を引き寄せました。
「海軍省へ正式に照会する。5万人を受け取ったのか。何の作戦なのか。王国で海軍が独自行動をしているのか。全部聞く」
「返事を待ちますか」
「待つ。ここで勝手に5万人の海軍と戦争を始める方がまずい」
照会文は帝都へ送られ、返書が戻るまでにもまた日数がかかります。
◇ ◇ ◇ ◇
「海軍省は知らないそうです」
後方の連隊司令部で、連隊長が返ってきた回答書を机へ置くと、威力偵察隊の指揮官が顔をしかめます。
「知らない、で終わりですか」
「『陸軍5万人を海軍へ転属させた事実は確認できない』だ」
「でも、こちらには正式な書類があります」
「だから困っている」
連隊長は、掲示板から持ち帰った写しをもう一度見ます。
「海軍が本当に独立を考えているなら、海軍省へ問い合わせて『はい、5万人を受け取りました』と答えると思うか」
「思いません」
「では、この回答だけで海軍説は消せない」
「王都へ向かった行軍跡も、王都から外へ出た大軍の行軍跡もあります。捕虜収容所まであります」
「陛下に上げるしかないな」
「この報告をですか」
「お前も来い。現場を見た人間が必要だ」
「連隊はどうします」
「ここへ残す。俺とお前が帝都へ行く」
◇ ◇ ◇ ◇
帝都の会議室に、陸軍の地図が何枚も広げられました。
「常備陸軍は40万人おります」
将軍が説明します。
「数字だけなら、まだ十分に見えるな」
「各方面で戦争中です。国境守備と占領地の駐屯を抜くことはできません」
「帝都守備隊は?」
「残します」
「では、新たに動かせるのは」
「8万人です。帝都守備隊を除けば、これがほぼ全部です」
部屋が静かになります。5万人が消えたまま、その5万人が海軍へ移ったのか、離反したのか、王国に残っているのかすら分かりません。
「もし5万人が離反して王国側についたのなら、少数を送る方が危険です」
「8万人を出す」
「出撃準備に2か月は必要です」
「急げ」
「8万人です。兵だけ集めれば出せる人数ではありません」
「2か月でやれ」
「8万人を2か月で出すのは、かなり急ぎます」
「分かっている。それでも2か月だ」
「承知しました」
帝都守備隊を残したうえで、いま動かせる兵力をほぼ全部まとめます。
◇ ◇ ◇ ◇
出撃準備が始まってしばらくすると、王国から追い出された商人たちが帝都へ帰り始めました。
「海軍になった5万人を見た者はいるか」
取り調べを受けた商人が首を振ります。
「いません。少なくとも私は見ていません」
「王都は誰が押さえていた」
「最初は帝国軍です。でも、そのあと王国側に取り返されました」
「海軍は?」
「見てません」
別の商人も同じことを言いました。
「帝国軍は王族をどうした」
「処刑しました」
「全員か」
「第3王女だけ別の離宮にいて、捕まらなかったそうです」
「年齢は」
「13歳です」
「その王女は今どこにいる」
「女王になっています」
聞き取りをしていた士官が顔を上げます。
「13歳の第3王女が?」
「上の王族が全員死んだので、そうなったと聞きました」
軍人についてきていた女性たちからも話を聞きます。
「海軍なんて見てないわよ」
「5万人は?」
「知らない。王都を取ったところまではみんな知ってる。でも、そのあと急にいなくなったの」
「海へ向かった部隊を見たか」
「見てないってば」
「王都には帝国兵が残っていたか」
「捕虜ならいたわ。あとは王国の兵よ」
証言が増えるほど、最初の推測は崩れていきます。帰国者は誰も海軍兵を見ておらず、王都はすでに王国側が奪還し、13歳の第3王女が女王になっています。それでも、5万人がどこへ行ったのかだけは分かりません。
「海軍説を取り下げますか」
参謀の1人が尋ねます。
「代わりの説明があるのか」
「ありません」
「13歳の王女が5万人を消した、とでも書くか」
「それも説明になりません」
「なら、8万人の準備は続けろ」
「任務は?」
「5万人の所在確認。王国の再制圧。必要なら離反部隊の鎮圧だ」
「承知しました」
◇ ◇ ◇ ◇
そのころ王国では、カタリナが別の名簿を見ていました。
「81人ですね」
「はい。重複して報告されていた者を全部整理すると、王国軍の生存者は81人です」
「新兵を急いで集めても、すぐには軍隊になりません」
「号令も、信号も、隊形も分かりませんからな」
国璽を届けた近衛兵が、別の名簿を出します。
「退役した者へ声をかけています。年齢は上がりますが、軍務経験があります」
「何人まで戻せそうですか」
「400人です」
「81人を含めて?」
「はい」
数日後、離宮前の広場には年齢の高い兵士たちが並びます。白髪の者も、腹の出た者もいて、若い兵ほど長く走れない者もいます。
「陛下。視力と足腰は若い頃より落ちております」
古参兵の1人が言います。
「ですが、命令、信号、隊形、見張りの交代、部隊での生活なら忘れておりません。そこは今でも一級だと自負しております」
「お願いします」
「武器は?」
「あります」
カタリナが答えます。
「帝国軍5万人分ありますから」
何人かが、なんとも言えない顔をしました。
「……足りない心配はありませんな」
「はい。そこだけは」
◇ ◇ ◇ ◇
6月、帝国の8万人が出発します。騎兵中心の1000人だった威力偵察隊とは、進む速度がまるで違います。
「この町へ何人入れる」
「3000が限界です。それ以上置けば、食料がもちません」
「次の町へ分けろ」
「飼料は?」
「周辺の村から徴発する。1か所から取りすぎるな」
「後続は別の街道へ回します」
8万人を1つの町へ入れれば、軍隊だけで町を食い潰します。部隊は後方の町や村へ分かれ、食料と飼料を徴発しながら少しずつ前へ進みます。歩兵の列に騎兵が続き、その後ろには荷車が延々と連なります。
先に出た騎兵中心の1000人なら短期間で通れた道を、8万人はゆっくり進みます。
王国との国境には、まだ着きません。




