第5章 鼠の手も借りたい 帝国による被害甚大 行政官の9割が星になってしまった。
第5章 鼠の手も借りたい
「行政官が9割以上死んじゃってさー。猫の手どころか、鼠の手まで借りたいんよー」
王都の役所で、生き残った行政官が商人に言います。
「鼠ですか」
「鼠。字が読めて、数字が分かって、書類をなくさなければ、もうかなりありがたい」
「そこまで減ったんですか」
「そこまで減った。だから布と糸と針をお願い。丈夫な作業着に使えるものも」
「捕虜用です?」
「外で仕事をさせる捕虜には、軍服のまま出せないからね。収容所の中なら階級章を外した軍服で足りる。アホほどあるし」
「5万人分でしたっけ」
「予備まである」
商人が少しだけ顔をしかめましたが、それ以上は聞きません。
「それと、シーツや寝具のカバー、タオルに回せる布も欲しい。服飾の仕事をしていた捕虜がいるから、縫う方はこっちでもやる」
「分かりました。入れられるだけ入れます」
「助かる。ほんとに人がおらんのよ」
行政官は次の書類へ手を伸ばします。
商人が知る必要のない話は、そこで終わりです。
◇ ◇ ◇ ◇
同じ日の午後、国璽を届けた近衛兵が、離宮へ3人の捕虜を連れてきました。
3人とも飾りのない捕虜服です。
「陛下。行政官の中で、特に仕事ができる者を連れてまいりました」
「お名前は?」
「今はプリズンネームを使わせています。こちらがポチ、こちらがシロ、こちらがタマです」
最後の1人は女性でした。
「元の役職も教えてください」
ポチが先に答えます。
「帝国では下級行政官です」
「帝国では、ですね」
「……はい。以前の国では財務を担当する高級行政官でした」
シロは、比較的最近帝国に占領された国で地方長官を補佐する高級官僚でした。
タマは、元の国で中央行政の高官を務めています。複数の部局をまたぐ調整も担当していました。
「帝国は、占領した国の若い高級行政官を下級職へ落として使っているのですね」
「その方が扱いやすいのでしょう」
タマが静かに答えます。
「こちらで正式に行政官へ任命した場合、帝国に知られますか」
3人とも、すぐには答えませんでした。
タマが口を開きます。
「知られれば、本国に残っている家族が殺される可能性があります」
「可能性、ですか」
「実例があります。妻子を含め、一族ごと消えた家もございます」
カタリナは近衛兵を見ました。
「この3人だけではありませんね」
「同じ事情の者がほかにもおります」
「では、行政官捕虜は当面、捕虜のまま使います。王国への忠誠宣誓も求めません」
ポチが顔を上げます。
「王国の仕事をしても、ですか」
「捕虜として命令された仕事をしている形を崩しません。本名も外へ出しません」
「プリズンネームは、このままで?」
「はい。元高官だけ立派な名前にして優遇しているように見せる必要もありません。タマ、トラ、ポチ、ペス、クロ、シロ。そのくらいで揃えてください」
近衛兵が書き留めます。
「ご家族をこちらへ移せるなど、帝国からの報復を心配しなくてよくなった方は、本人の希望を確認します。その時点で王国へ再雇用するなら、元の国で高官だった方でも下級行政官からです」
「承知しました」
「それまでは捕虜です。仕事はしていただきます」
タマが頭を下げます。
「その方が、家族には安全です」
「では、その形で進めます」
◇ ◇ ◇ ◇
数日後。
「陛下。役所の食堂を通常運営へ戻しました」
離宮の執務机に、食堂の人員表が置かれます。
「捕虜の炊事担当だけで足りましたか」
「足りませんでした。命令どおり、徴兵前の職業も調べています。飲食店の料理人だった捕虜を調理兵へ回しました」
「何人ですか」
「元の炊事担当と合わせて、必要数を確保しています。食材と炊事器具は鹵獲品を使っています」
「役所の中だけですね」
「はい。調理場と食堂の範囲から出しません」
「それでお願いします」
行政官が次の紙を出します。
「元大工、鍛冶、御者、商人なども見つかっています。町からは人手不足の訴えが来ていますが……」
「民間へは出さないでください」
「やはり、ですか」
「帝国軍は村を焼き、逃げ遅れた民間人も殺しています。個人ごとの関与を確認できていない兵を、人手不足だからという理由だけで住民のところへ出しません」
「技能は使わないのですか」
「収容所の中と、王国軍が直接管理する作業で使ってください。料理ができること、大工仕事ができることと、民間人のそばへ自由に出して安全かどうかは別です」
「承知しました」
「捕虜としての衣食住はきちんと出してください。それと自由に動かしてよいかは、同じ話ではありません」
行政官はそのまま命令を書き写します。
「服飾関係の捕虜は、外勤用の捕虜服とリネンを作っています」
「収容所内の軍服は足りますね」
「5万人分と予備がありますので、当分なくなりません」
「でしたら、新しい軍服を作る作業には回さないでください。手間が無駄です」
「はい」
◇ ◇ ◇ ◇
「次です。戦死者と、軍で働いていて亡くなった民間人の遺族についてです」
生き残った行政官が、厚い名簿を開きます。
「個別査定を始めていますが、かなり時間がかかります」
「止めてください」
「止めるのですか」
「時間がかかると、遺族が困ります。計算できるものは計算式で支払います」
カタリナは紙を引き寄せました。
「まず、戦死した軍人は全員、2階級昇進です」
「二階級特進、ではなく?」
「昇進です」
カタリナはそこで区切ります。
「今回は、大軍に飲み込まれて亡くなった方が大半です。大勢の中のわずかな英雄行為を選んで特別に上げる話ではありません。兵員として命を失った代償として、きちんと2階級昇進させます」
「軍功の評価とは分けるのですね」
「はい。亡くなったご本人には、もう何もできません。名誉や勲章を与えても生き返りません。ですから、遺族に対して報います」
カタリナが式を書きます。
補償額 = 2階級昇進後の給与で退職年齢まで勤務した場合の給与総額 − 同じ期間の、その階級の平均生活費
「段階式にはしません」
「年齢で区切らない?」
「区切りません。年齢、残りの勤務期間、給与、平均生活費をそのまま式へ入れます。少しの差で、受け取る金額に大きな差が出る境目を作らないでください。スロープ式です」
「軍で働いていた民間人はどうします」
「死亡時の職種と賃金を基準に、退職年齢までの給与見込みから、同じ期間の平均生活費を引きます。こちらも連続した計算式にしてください」
「財源は?」
「帝国軍の軍資金と、占領行政用の資金から出します」
「王国の国庫ではなく?」
「国庫は国庫として戻しています。帝国軍は一度押さえましたが、本国へ運ぶ前でしたね」
「はい。貨幣も高価な資産も、輸送にはかなりの護衛が必要でした。その護衛まで主力5万人に含まれていましたので、王都から運び出されていません」
「元の国庫と、鹵獲した帝国側の資金は分けて記録してください。遺族補償と生活保障は、まず帝国側の資金から支払います」
「承知しました」
ポチが横の机で式を写しています。
「この形なら、個別に長い査定をしなくても処理できます」
「行政官が9割以上いないのでしょう。複雑な制度を作っても、運用する人がいません」
「その通りです」
行政官が苦笑します。
「鼠の手まで借りておりますので」
カタリナも、その言葉だけは聞いていました。
「鼠にも、働いていただきましょう」
次の支給対象の名簿が、机の上へ置かれます。




