第11章 カタリナは低湿地を入れ替えます。硫化水素の湧く沼はいらない。
第11章 カタリナは低湿地を入れ替えます
「次は、この土地です」
カタリナが地図の上を指で囲みました。
帝国軍8万人が壊滅した低湿地は、国境の向こう側にあります。面積はおよそ20km²。地形としては古い堰止め湖に近く、長い時間をかけて泥や有機物がたまり、その下には比較的安定した湖底の地盤があります。
8万人の遺体はすでに全部、帝国の家畜と交換して返しました。
「泥を動かすのですか」
「はい。硫化水素が発生する泥を、安定した地盤が出る深さまで取ります」
「交換相手は?」
「帝国の麦畑の表土です」
地図を見ていた行政官が顔を上げました。
「低湿地は20km²あります。一度に全部ですか」
「2km²ずつにします。10回です」
カタリナは別の紙へ簡単な断面図を描きました。
「低湿地側は、表面だけでは足りません。硫化水素を作る泥層を、下の安定した地盤まで交換します。麦畑の方は表土だけですから、同じ体積をそろえるには面積が広くなります」
「どのくらいでしょう」
「1回の2km²に対して、麦畑はおよそ10km²を見込んでいます。実際の厚さを見ながら体積を合わせます」
「10回なら、麦畑は合計100km²ほど」
「そのくらいです」
交換するのは同じ体積です。必要魔力量は、密度比、交換する質量、距離の積で決まります。ここでいう密度は、物質を構成する成分一つの密度ではなく、交換対象全体の平均密度です。水を大量に含んだ低湿地の泥と、空隙の多いふかふかした麦畑の表土なら、交換時の状態で平均密度を比べられます。カタリナは表土の含水状態や空隙も見ながら、密度比が大きく外れない場所を選んでいました。
行政官はしばらく黙って地図を見ていました。
「帝国領内の土を、帝国領内で入れ替えるのですね」
「そうです」
「低湿地の方は、いま誰が支配している扱いでしょう」
その質問には近衛兵が答えました。
「帝国側から人が来ていません。8万人が壊滅してから、調査隊も回収隊も近づいていないようです」
「魔物も増えています」
別の報告係が続けます。
「かなり強いものが何種類も確認されています。魔王国の者には寄ってきませんが、帝国側の人間が入れば安全を保てる場所ではなさそうです」
カタリナは地図を見ました。
「では、事実上はこちらの土地ですね」
条約上の国境線は以前の位置に残っています。それでも帝国は実効支配を失い、魔王国側の人間だけが安全に入れます。20km²の低湿地は、事実上、魔王国へ割譲された土地として扱われていました。
「最初の2km²をやります。人を入れるのは交換が終わってからにしてください」
「承知しました」
◇ ◇ ◇ ◇
カタリナは低湿地の一角と、帝国内の麦畑を同時に指定しました。
麦畑は1か所にまとめません。いくつかの地域へ分けて、合計がおよそ10km²になるよう表土を選びます。
「深さは場所ごとに違います」
「交換する体積は合わせられますか」
「はい。こちらの泥を安定した地盤まで指定して、その体積と同じになるよう、麦畑側の表土の厚さと面積を選びます。平均密度も近い場所を優先します」
「では、お願いします」
転移魔法が発動しました。
低湿地の2km²から、黒く水を含んだ泥の層が消えます。同じ場所へ、帝国の麦畑から選ばれた表土が現れました。
帝国側の麦畑では逆のことが起きています。
麦の根が張っていた肥沃な表土が消え、その場所へ低湿地の黒い泥が現れます。畑は何か所にも分かれていましたが、変化は同時でした。
「終わりました」
「こちらへ入っても?」
「はい。ただし、地面の状態を見ながら進んでください」
作業員が距離を置きながら交換後の区域へ入ります。
「下が固い」
「このあたりは水がたまっています。排水路が要ります」
「表土はかなり厚いぞ」
元の泥層を丸ごと交換しているので、麦畑側から集めた薄い表土が低湿地側では厚く積み上がります。
「すぐ畑にする場所と、排水してから使う場所を分けましょう」
カタリナが言います。
「牧草地にも使えます」
家畜を担当していた捕虜が答えました。
「牛を増やすなら、全部を耕すより草地を残した方が助かります」
「では、その案も入れてください。20km²は区域ごとに用途を分けましょう」
最初の2km²が終わると、翌日には次の区域へ進みました。
◇ ◇ ◇ ◇
「2回目です」
「麦畑側、準備できています」
「始めます」
2km²ずつ、次の区画へ。カタリナは10回に分けて、低湿地の泥を順番に交換していきました。
3回目になるころには、作業員も交換後の土地をどう確認すればよいか分かっています。地面の高さ、排水の方向、表土の厚さ、すぐに牧草地として使える場所、畑に向く場所を記録します。
帝国側では、そのたびに合計約10km²の麦畑が黒い泥へ変わりました。
「これで6回目です」
「低湿地側は12km²終了です」
「あと8km²ですね」
「はい」
魔王になったカタリナには距離の制約がほとんどなく、複数地点への同時転移も負担になりません。帝国内の離れた麦作地帯から表土を集める作業は、魔法そのものより、どの土地を指定したかを記録する事務の方が大きくなっていました。
「陛下、こちらが7回目までの一覧です」
「同じ畑を二度指定していませんね」
「照合済みです」
「では続けます」
帝国側からも、断片的な報告が入ってきました。
「麦畑が泥になった地域では、耕作を止めています」
「当然でしょうね」
「表土が消えたところへ黒い泥が現れ、場所によっては水が浮いています。農具も埋まったそうです」
「人は巻き込まれていますか」
「畑にいた者は、地面の上に立ったままです。交換したのは表土だけです。転倒した者はいるようですが、死者の報告は今のところ入っていません」
「その確認は続けてください」
カタリナは人間を土と一緒に交換対象へ入れていません。目的は、低湿地の泥と帝国の農地の表土を入れ替えることです。
「向こうは、この低湿地がどうなったか知っていますか」
「近づける者がほとんどいません。遠くから見て、黒い泥が減ったことまでは分かるようです」
「強い魔物がいるからですね」
「はい。帝国側の斥候は森の手前で引き返しています」
魔王国の作業員は同じ森を普通に通り、交換後の土地で測量を続けています。その差だけで、誰がこの土地を実際に使えるのかは明らかでした。
8回目、9回目と進み、最後の2km²が残ります。
「これで20km²全部です」
10回目の交換が終わったあと、行政官が集計表を読み上げました。
「低湿地側、2km²を10区画。処理面積20km²。麦畑側は区画ごとの差がありますが、合計でおよそ100km²です」
「分かりました」
かつて8万人の帝国兵が倒れ、硫化水素の発生する泥の中へ遺体を沈めた低湿地から、その泥が消えました。代わりに入ったのは、帝国各地の麦畑で作物を育てていた表土です。
「魔物は?」
「残っています。森側から入ってくるものもいます」
「こちらの人を襲っていますか」
「見た範囲では0です」
「それなら予定どおり使えます」
行政官は、交換の終わった20km²を示す地図へ視線を戻しました。
「境界はどうしますか」
「測量杭を置いてください。魔物がいる土地でも、地図上の位置はきっちり残します」
記録係がその指示を書き込みます。
「帝国側が杭を抜きに来た場合は?」
「そのときは記録します。現状では、そこまで入ってくる方が難しいと思います」
作業員は旧来の国境線と、実際に魔王国側が使用している範囲を別々に記録しました。将来、正式な領土文書を作るときにも使えるよう、面積と地形を測っておきます。
「20km²全部を耕すと、人手が足りません」
「家畜も増えましたから、牧草地を広めに取ってください」
「水路沿いは飼料作物に向きそうです」
「では候補に入れましょう」
カタリナは20km²の地図へ、牧草地候補、畑候補、排水を先に行う場所を書き込ませました。
8万人分の家畜を受け入れたあと、今度はその家畜を育てる土地と、穀物を作る土地が増えます。
「家畜を全部ここへ集めますか」
「一部だけにしましょう。20km²へ集中させると、病気が出たときの被害が大きくなります」
「では、牛と羊の一部を新しい牧草地へ。鶏は今の鶏舎を増設します」
「農地は?」
「麦だけにせず、飼料になる作物も入れたいです」
帰還者の中に農民が戻れば、どの土地に何を作るかは現場の経験者と相談できます。カタリナは地図の余白へ、農業担当者を決めたあと再度区画を見直す、と書かせました。
「土を入れ替えたから完成、ではないですね」
「はい。水路と道を作って、人が使って初めて土地になります」
「その仕事も増えましたね」
「人が戻ってくれば、仕事がある方がよいです」
帝国側に残ったのは、家畜を失った畜産地と、およそ100km²にわたって低湿地の泥へ変わった麦畑でした。
「次に使う人が必要ですね」
カタリナが言うと、行政官がうなずきました。
「人手さえ戻れば、すぐに動かせます」
その人手を、カタリナは帝国内から取り戻すつもりでした。




