第10章 カタリナは8万人を返します。 といっても生きていませんが。
第10章 カタリナは8万人を返します
魔王になって数日たつと、カタリナは自分に増えた魔法を少しずつ確かめていました。
ほとんどの種類の魔法が使えます。その中でも、やはり一番扱いやすいのは転移魔法でした。以前から使ってきた魔法なので、何をどこまで指定すればよいかが感覚で分かります。
変わったのは出力でした。
「距離が、ほとんど効いていません」
机の前でカタリナが言うと、報告書を持ってきた近衛兵が顔を上げました。
「帝国の奥地でも、ですか」
「はい。それから、別々の場所を同時に指定できます。以前なら交換する場所を一組ずつ考えていましたけれど、いまは何十組あっても同時に扱えます」
「魔王になった力、ということですか」
「たぶん、そうです」
カタリナは別の地図を机へ広げました。国境の向こう、帝国領内にある低湿地です。
そこには、帝国軍8万人の遺体が残っています。7月の暑さの中で腐敗はかなり進んでいます。戦闘のあと、遺体だけを泥の深いところへ交換転移したため、衣服や装備は元の場所に残り、泥の中の遺体は裸に近い状態でした。
「この8万人の遺体をどうなさいますか」
「帝国へ返します」
近衛兵が地図から顔を上げました。
「8万人、全員ですか」
「はい。帝国から来た人たちですから、帝国へ返します」
「最初の5万人は?」
「海へ送りました。帝国海軍へ転属した記録も作って、水葬として葬儀を済ませています。あちらは返しません」
「では、低湿地の8万人を帝国へ返すのですね」
「はい。ただ、8万人を一度に動かす前に、200体で試します」
近衛兵が地図をのぞき込みました。
「何と交換なさいますか」
「帝国の家畜です」
カタリナは指先でいくつかの場所を示しました。
「浅いところにある遺体は、養鶏場のニワトリと交換します。数10羽ずつ、遺体側と家畜側の平均密度が近くなるよう組み合わせます。少し深いところは牛や山羊と入れ替えます」
「家畜は生きたまま、こちらの低湿地へ来るのですね」
「そうです。だから回収する人を先に置きましょう。ニワトリは籠、山羊と牛には綱と柵を用意してください」
「捕虜の中に、家畜を扱える者がいます」
「その方たちにお願いします。泥へ入るので、引き上げる人数も多めにしてください」
準備が整ってから、カタリナは低湿地を見渡せる場所まで出ました。魔国の国民になった人々は魔物に襲われません。この低湿地でも、魔王国側から来た作業員や捕虜の周囲を、見慣れない魔物が遠巻きに歩いています。
「では、200体です」
カタリナが転移魔法を使いました。
低湿地の浅い泥の中から遺体が消え、その場所にニワトリが現れます。水面が何か所も跳ね、驚いたニワトリが羽をばたつかせました。
「来たぞ。籠を!」
「そっちは深い、先に綱を回せ!」
少し離れた場所では、牛が泥へ脚を取られながら立ち上がります。山羊は着地した瞬間から岸の方へ進もうとしていました。
捕虜たちの中から声が上がります。
「その牛は頭から引くな。横へ回せ」
「山羊を先に上げろ。牛の前へ出すなよ」
帝国側では、同じ瞬間に養鶏場や牧場から家畜が消えています。代わりに現れたのは、衣服も装備もなく、泥に浸かって腐敗した人間の遺体でした。
最初の報告を受けた地方役人も、何が起きたのか理解できませんでした。
「鶏が消えて、死体が出た?」
「はい。鶏舎の中です。数10羽が一度に消えました」
「死体は誰だ」
「身元は不明です。服も消えていて、かなり腐っています」
「盗賊が死体を運び込んだのではないのか」
「柵も扉も壊れていません。牛の牧場でも同じ報告が来ています」
別の地方では山羊が消え、別の牧場では牛が消えました。発生時刻を並べると、ほとんど同時です。
「同じ事件として上へ報告しろ」
「家畜泥棒として?」
「死体が残る家畜泥棒など聞いたことがない。現象そのものを報告する」
200体だけでも、帝国側では複数地域の役所が動き始めていました。
腐敗が進み、衣服も装備もないため、見ただけでは帝国兵と判別しにくい姿です。養鶏場なら数10羽のニワトリが消えた場所に身元不明の遺体が現れ、牧場では牛や山羊がいた場所へ同じような遺体が出ます。
「陛下、全部生きています」
低湿地から上がった捕虜が報告しました。
「怪我は?」
「泥へ落ちたときに脚をひねった山羊が1頭。ほかは大丈夫そうです」
「では、今日の分はここまでにします。家畜を洗って、種類ごとに分けてください」
カタリナも回収場所まで下りました。泥だらけのニワトリは籠の中で落ち着きを取り戻し、山羊は乾いた草を見つけるとすぐに食べ始めています。牛は水を飲ませてから、脚に傷がないか1頭ずつ確認されました。
「この牛は帝国の焼き印があります」
捕虜の1人が尻のあたりを指しました。
「どこの牧場か分かりますか」
「領主の印までは分かります。私がいた地方とは別です」
「記録してください。どこから来た家畜か分かるものは残します」
「返すためですか」
「飼育と繁殖の記録のためです。病気が出たときにも由来が分かった方が追えます」
捕虜は少し驚いた顔をしてから、牛の番号を書き始めました。
「ニワトリは混ぜますか」
「今日来た群れごとに分けてください。数日見て、病気が出ないことを確認してからです」
「分かりました。餌は鹵獲した穀物を使えます」
「では、消費量も記録しましょう」
家畜を奪って終わりにすると、数日の食料にしかなりません。生かして増やせば、卵、乳、肉、皮、肥料へつながります。捕虜の中に牧畜や養鶏を仕事にしていた者がいたことも、いまは大きな助けになりました。
「飼育はどうしますか」
「経験のある捕虜を中心に始めましょう。餌と水の量も記録してください」
その日のうちに、小さな鶏舎と仮の柵が使われ始めました。
◇ ◇ ◇ ◇
翌日、カタリナはもう少し規模を大きくしました。
「今日は肉牛です」
「何体分でしょう」
「遺体400体分と平均密度が近くなるよう肉牛を選び、同じ体積で交換します」
「かなり来ますね」
「昨日、牛を扱える人の人数は確認しました。受け入れ場所も増やしています」
カタリナは帝国内の複数の肉牛牧場を同時に指定しました。特定の1か所から全部を取れば、その地域だけが極端な被害を受けます。何か所かへ分け、遺体側と家畜側の交換体積を合わせます。生体は水分、脂肪、筋肉、骨、肺や消化管内の空気などが混ざった集合体なので、比べるのは個々の組織ではなく、交換範囲全体の平均密度です。
魔法を発動すると、低湿地の泥が何十か所も揺れました。
「牛が来た!」
「西側にもいるぞ!」
捕虜たちは昨日より手際よく動きます。泥に入った牛へ綱を回し、足場のよいところへ誘導し、1頭ずつ仮設の牧柵へ移していきました。
「これだけいれば、肉を取るだけでなく増やせます」
元牧畜農家だった捕虜が牛を見ながら言いました。
「増やす方を先にしてください」
カタリナが答えます。
「食べるために全部減らしてしまったら、来年また困ります」
「分かりました。若い雌は特に残します」
さらに翌日。
「今日は乳牛400体分です」
「搾乳できる者を集めました。桶も洗ってあります」
「仔牛が一緒にいる場合は?」
「可能なら親子をまとめて指定します」
前日の肉牛と同じように、今度は帝国内の乳牛が消えました。低湿地には、生きた乳牛が次々と現れます。
捕虜の中には、牛の乳房を見ただけで搾乳時期を判断する者もいました。
「この牛は今すぐ搾った方がいいです」
「ではお願いします。飲用に回す分と、加工を試す分を分けてください」
「チーズまで作りますか」
「できる方がいるなら、ぜひ」
捕虜収容所の仕事に、牧畜と養鶏が本格的に加わりました。
◇ ◇ ◇ ◇
その後も交換は続きました。
ニワトリ、山羊、羊、豚、肉牛、乳牛。帝国内の何か所もの畜産地を同時に指定し、低湿地に残っている遺体と平均密度が近くなる組み合わせを選び、同じ体積で交換していきます。平均密度が近ければ、同じ体積を入れ替えたときの質量差も小さくなります。
一度に8万人を動かす方法も、いまのカタリナなら使えます。それでも受け入れる側には柵も餌も人手も必要です。カタリナは、回収と飼育が追いつく量に区切って転移を繰り返しました。
「今日の分で、残りは?」
「確認します」
記録係が台帳をめくります。
「0です、陛下」
カタリナはもう一度聞きました。
「低湿地の8万人、全部ですか」
「はい。最初の200体から今日の分まで合計し、8万人分すべての交換が終わっています」
低湿地に埋まっていた遺体は、1体も残っていません。
帝国側では、家畜が消えた場所へ8万人分の遺体が戻りました。最初の200体のころには身元不明遺体の出現として騒がれた事件も、回数が増えるにつれて、失踪した帝国軍との関係を疑われるようになっています。
こちらには、その交換体積と質量に見合う大量の家畜が残りました。
「鶏の班から、卵の集計が来ています」
「乳牛の方は?」
「毎日の搾乳量を記録し始めました。肉牛は繁殖用を分けています」
「山羊と羊もお願いします」
「はい」
捕虜たちは、昨日まで存在しなかった規模の牧場と鶏舎を動かし始めています。
「牛の頭数だけでなく、雄雌と年齢も分けます」
「繁殖計画ですか」
「はい。乳牛は搾乳量、鶏は産卵数も。山羊と羊も仔が増えたら別欄です」
「捕虜の仕事が増えますね」
「元の職業を生かせる方には、その方がよいでしょう。作った食料は捕虜だけでなく、帰還する国民にも使います」
収容所の外側には新しい柵が延び、鶏舎では卵を集める籠が増えました。捕虜の中には、軍服より家畜の扱いの方がずっと慣れている者もいます。
「陛下、この男は徴兵前に乳牛を40頭見ていたそうです」
「では乳牛班へ。軍での階級より、今できる仕事を優先してください」
「承知しました」
カタリナは台帳の最後に書かれた数字を見ました。8万人。帝国へ返すべき遺体は、これで全部返し終えました。




