怒りって
「嫌な研究指導者だこと。」
「褒め言葉いただきました。」
◆
「はい。というわけで引き続き見ていきまっしょう!チーム・ミスリルの瑠璃ちゃんだよ!」
「同じくミスリルです。よろしくね。」
「この論文さ。」
「うん。」
「魔王の怒りを否定しようとしてるんだよね。」
「そう読めるわ。」
「だけど、魔王の怒りが、一個人の意思による持続的高熱だと決めつけてるんだよね。」
「だって、爆発を知らない人々が、魔王の怒りをそう定義したんでしょう?」
「そう。そこなの。」
「そこ?」
「うん。魔王の怒りって聞いた時に、みんな、怒って火を出し続ける何かを想像してる。」
「持続的に、燃やし続ける。」
「そうそう。だから、サンドロス先生はまずそこを否定してるんだよね。長く燃えたんじゃない。一瞬だった。風もあった。黒化も表層だけだ、って。」
「ええ。」
「でもさ。」
私は少しだけ身を乗り出した。
「魔王の怒りが大魔法なら。」
「うん。」
「大魔法による大爆発だったら?」
「……ああ。」
ミスリルが、そこで初めて、少しだけ黙った。
「なるほど。」
「でしょ。」
「つまり、サンドロス先生は、通説の狭い定義を崩しているけれど。」
「うん。」
「通説そのものが、最初から魔王の怒りを狭く解釈しすぎている。」
「そういうこと。」
「持続的高熱でなければ、魔王の怒りではない、という前提。」
「うん。」
「でも、その前提自体が怪しい。」
「そうなの。」
ミスリルは、紙束に視線を落としたまま言った。
「この世界の人たちは、怒りを長く燃えるものとして見ているのね。」
「お。」
「だって、火の継続でしか大きな災厄を想像できないから。」
「そう。」
「一瞬で来て、一瞬で全部を壊す怒り、という発想がない。」
「それ!」
「だから、観測結果が持続的高熱を否定した時、魔王の怒りそのものを退ける方向へ進んでしまう。」
「そうなんだよねえ。」
私は、膝を叩いた。
「でも、こっちから見ると、そこは分けなきゃいけない。」
「ええ。」
「持続的高熱ではなかった。」
「はい。」
「だから魔王の怒りではない。」
「そこが飛躍ね。」
「そう。そこ、飛んでる。」
「正しくは。」
「うん。」
「持続的高熱ではなかった。だから、人々が想像していた魔王の怒り像とは違う、で止めるべき。」
「そうそう。」
「でも、この論文はそこから一歩進んで、魔王説そのものを退けに行っている。」
「観測の言葉で、通説を追い出そうとしてるんだよね。」
「ええ。」
「そこが面白いし、危ない。」
ミスリルは少しだけ笑った。
「あなた、ほんとうにそういうところ好きね。」
「好きだねえ。論理の飛躍を見つけると元気になる。」
「嫌な研究指導者だこと。」
「褒め言葉いただきました。」
私は紙の一節を指でなぞった。
「願わくは、この結論が、怒りの名を一人へと押しつける安易さを退け、失われた都の最期を、観測の言葉で語り直す端緒とならんことを。」
「うん。」
「ここ、すごく誠実なんだよ。」
「ええ。」
「一人に押しつけるな、ってちゃんと言ってる。」
「そこはかなり大きいわ。」
「うん。大きい。」
「でも同時に。」
「うん。」
「この人は、押しつけを退けたいあまり、魔王という語に含まれ得る幅まで削っている。」
「そう。」
「あなたの言う、爆発的な怒りの可能性を切り捨ててしまっている。」
「そうなの。」
少しの沈黙が落ちた。
「ねえ、ミスリル。」
「なに。」
「怒りってさ。」
「うん。」
「長く燃えるものだけじゃないよね。」
「ええ。」
「一瞬で、取り返しがつかないくらい壊すこともある。」
「あるわ。」
「でも、それでいて、その一瞬の前には長い蓄積がある。」
「あるわね。」
「だよね。」
「ええ。」
ミスリルはそこで、少しだけ遠い顔をした。
でも今回は、その先を言葉にしなかった。
「だから、魔王の怒りを否定するにしても。」
「うん。」
「持続的高熱ではなかった、という一点だけで退けるのは、少し惜しい。」
「惜しい、か。」
「うん。論文としてはかなりいいんだよ。観測も誠実だし、通説に抗う気概もあるし。」
「ええ。」
「でも、怒りの像がまだ人間社会の想像力に縛られてる。」
「爆発がない世界の限界ね。」
「そういうこと。」
「爆発を知らない。」
「うん。」
「だから、爆発的な怒りも知らない。」
「そうなの。」
私はちょっとだけ、嬉しくなった。
「ね、ここ面白いでしょ。」
「面白いわ。」
「でしょ。」
「観測はかなり先まで届いているのに、概念が追いついていない。」
「うん。」
「だから、論証はかなり正しいのに、否定の仕方が少し狭い。」
「そうそうそう。」
ミスリルは、そこで静かに頷いた。
「つまり、この後編の面白さは。」
「うん。」
「観測の誠実さと、概念の限界が同時に見えること。」
「はい、優勝。」
「まだまとめてないわ。」
「でも優勝。」
私は咳払いをした。
「では、まとめます。」
「どうぞ。」
「この論文は、観測によって、人々が思い描いていた持続的高熱としての魔王の怒りを崩した。」
「はい。」
「でも、魔王の怒りという語そのものが持ち得る幅までは、検討し切れていない。」
「はい。」
「なぜなら、この世界には爆発という概念がないから。」
「はい。」
「だからサンドロス先生は、爆発に近い現象を、瞬間熱、外向衝風、表層黒化として一つずつ記述するしかなかった。」
「はい。」
「その結果。」
「その結果?」
「観測はかなり当たってるのに、否定の射程だけ少し狭い。」
「ええ。」
「でも、それは欠点であると同時に、この世界の限界をそのまま映している。」
「ええ。」
「つまり。」
「つまり?」
「この論文、かなり正しい。」
「はい。」
「でも、まだ知らない言葉の分だけ、少しだけ足りない。」
「ええ。」
「そこが、めちゃくちゃ面白い。」
「それも、ええ。」
私は満足して頷いた。
「いやあ、いい論文でした。」
「良い査読でした、と言うべきかしら。」
「それはそう。」
「でしょうね。」
「というわけで。」
「ええ。」
「サンドロス先生、かなり好き。」
「わかるわ。」
「次回は?」
「次回は。」
ミスリルは少しだけ目を細めた。
「その論文が、誰の名前で世に出たのか、を読みましょう。」
「来たね。」
「来たわね。」
「論文の中身じゃなくて、名前のほう。」
「名前のほう。」
「好きだなあ、そういうの。」
「あなたもでしょう。」
「好きだねえ。」
異世界ネットは来てないけど。
言葉がないせいで、かえって見えるものもあるんです。




