第16話:最悪の自白
背後で、鼓膜を劈くようなヘリの爆音が響き続けている。
男たちの怒号。強風に煽られる木々の悲鳴。
そして、それらすべてを切り裂くような、紗夜の悲痛な叫び声。
「あ、あぁぁぁ……っ!」
僕は耳を塞ぎ、喉から血の味がするほど荒い息を吐きながら、真っ暗なトンネルを走り抜けた。
また、見捨てた。
あんなに「今度こそ助ける」と誓ったのに。本物の死の恐怖を前にした僕は、あの日と同じように彼女の手を離し、自分だけが生き延びるために走り出していた。
右の掌に食い込む、小さなプラスチックの板。
それだけが、僕がクズではないという唯一の証明だった。
(守るんだ……これだけは、絶対に隠し通さなきゃいけないんだ!)
その強迫観念だけが、崩れそうな僕の精神をギリギリで支えていた。
この「紗夜の遺産」を安全な場所に隠しさえすれば、僕は彼女との約束を果たせる。罪を贖える。
トンネルを抜け、獣道を下る。
暗闇の中、僕の足は迷うことなく「そこ」へ向かっていた。
古びた神社の裏手。雑草に埋もれるようにしてひっそりと佇む、石積みの枯れ井戸。
現実のあの日、追手から逃げ切れないと悟った僕が、最後の希望を託した場所だ。
僕は井戸の縁にすがりつき、身を乗り出した。
内側の石組みを指で探る。下から三段目。右から四つ目の石。
その石だけが、わずかに緩んでいるのを僕は「知っていた」。
石をそっと引き抜き、その奥の暗い隙間へ、握りしめていたSDカードを押し込む。
そして再び石をはめ込み、足元の湿った泥を掬って、隙間を完璧に塞いだ。
「よし……これで、誰にも見つからない」
荒い息をつきながら、僕は泥だらけの手で顔を覆った。
やり遂げた。敵は僕の命を奪えても、この秘密だけは絶対に奪えない。
「待ってて、紗夜……今度こそ、僕が君を……!」
井戸から立ち上がり、彼女を助けに戻ろうと踵を返した。
その、瞬間だった。
――ピタッ。
世界から、一切の「動き」が消え失せた。
耳を劈いていたヘリの爆音が、音量ゼロに絞られたように唐突に消えた。
頬を撫でていた夜風が止んだ。
空中に舞い上がっていた一枚の枯れ葉が、まるで空間に縫い付けられたように、空中で完全に静止している。
静寂、ではない。
物理法則そのものが、強制的に「停止」させられたのだ。
「……え?」
声を出そうとしたが、喉の筋肉が動かなかった。瞬きすらできない。
眼球だけを動かして見上げた夜空。
あの不自然に巨大な月からの強烈な光の筋も、チョークで描かれた絵のように、空中でピタリと固まっていた。
その絶対的な静止空間の中、天頂から「声」が降ってきた。
村長の声でも、追手の男たちの声でもない。
感情の起伏を一切持たない、スピーカー越しの無機質なアナウンス。
『――対象データの隠匿座標、セクター198-6、神社の枯れ井戸にて特定完了』
僕の脳髄に、氷の刃が突き刺さった。
『被検体の防衛障壁、完全解除を確認。
これより、尋問シミュレーションを終了します』
ああ。
ああ。
ああ。
ああ、あああ。ああああ。
凍りついた思考の中で、すべてが残酷に繋がった。
この村での僕の戦いは、紗夜を救うためのものではなかった。
何度も死に戻り、痛みに耐え、難題という名の「記憶のロック」を自らの手で一つずつ解除し。
愛する彼女が再び犠牲になるトラウマを再現され、恐怖に怯えながら逃げ惑い。
そして今。
彼女の遺産を守るために、最も安全な場所へ「隠した」――。
それこそが、奴らが喉から手が出るほど欲しがっていた『現実の隠し場所の自白』だったのだ。
僕が紗夜を想う純粋な気持ちも、彼女を守ろうとした決死の行動も、すべては敵に「SDカードの場所まで案内する」ための、滑稽な自作自演に過ぎなかった。
『お疲れ様でした。実証データの回収フェーズへ移行します』
無慈悲な声と共に、目の前の世界が、黒いノイズとなって崩れ落ちていく。
僕は絶望のあまり悲鳴を上げようとした。だが、声帯は動かない。
意識が急速に現実へと引き戻されていく中、僕の心は、取り返しのつかないほどの深さまで、完全に壊れてしまった。




