第14話:既視感の逃避行
――トントン。
ふすまを叩く音が、静寂を切り裂く。
僕は麻痺したような足を引きずり、震える手でふすまを開けた。
そこに立っていたのは、紗夜だった。
けれど、何かがおかしかった。
彼女が着ているのは、いつもの純白のワンピースではない。
襟元が大きく開き、膝下まである無機質な「白い服」。それはまるで見舞いに行った病院で見るような、薄手の患者着に見えた。
シミュレーションが崩壊しかけているせいか。
彼女を「かぐや姫」に仕立て上げていた偽物の皮が、剥がれ落ちようとしていた。
「逃げなきゃ……」
紗夜が、僕の腕を掴んだ。その指先は、以前よりもずっと生々しく、必死に震えている。
「お爺ちゃんたちが来る。……もう、ここにいたら殺されちゃう」
洗脳されていたはずの彼女の瞳には、今や恐怖が宿っていた。
僕は彼女の手を強く握り返した。
「行こう、紗夜。出口はもう開いているはずだ」
屋敷の廊下を駆け抜ける。
深夜だというのに、見張りの村人は一人もいない。
不気味なほどの静寂。
村全体が、僕たちが逃げ出すのを黙認し、手ぐすね引いて待っているような――そんな嫌な予感が背筋を撫でる。
けれど、立ち止まることはできなかった。
夜の森を、僕たちは死に物狂いで走った。
目指すのは村の出口、崩落して塞がっていたはずの裏山トンネルだ。
五つの難題という名の「心の防壁」を壊した今、あの場所を塞ぐ岩盤など、もう幻影ですらなくなっているはずだった。
「こっちだ!」
闇の中を疾走しながら、僕は自分でも信じられない言葉を口にしていた。
街灯一つない、鬱そうとした獣道。
初めて通るはずの道なのに、僕は迷わなかった。
(……おかしい)
思考の端っこで、冷静な僕が警鐘を鳴らす。
一メートル先に、躓きやすい太い木の根がある。
次の角を右に曲がれば、急な斜面の下に隠れられる大岩がある。
視界に入るより先に、僕はその「地形」を完璧に把握していた。
これは予知じゃない。
愛の奇跡でもない。
僕はこの道を、知っている。
現実の世界で、捕まる直前のあの夜。
僕は今と同じように紗夜の手を引いて、この山の中を、血を吐くような思いで逃げ回ったんだ。
呪物を壊して記憶の蓋をこじ開けたせいで、僕の体は、当時の逃走ルートを寸分違わず再現し始めていた。
「はぁッ、はぁ……っ、紗夜、大丈夫か!?」
「……うん、平気……!」
彼女の返事も、あの夜と全く同じだ。
進むにつれ、周囲の景色が奇妙に歪み始めた。
木々がデジタルノイズのように点滅し、地面の質感が消えて無機質なグレーに染まっていく。
システムの描画が、僕の記憶の再生スピードに追いついていないのだ。
けれど、それがどうした。
たとえここが偽物の世界でも、この先のトンネルさえ抜ければ、僕は彼女を外の世界へ連れて行ける。
あの夜に失敗した「脱出」を、今度こそやり直せるんだ。
目の前に、巨大なトンネルの口が開いた。
崩落していたはずの岩は、霧のように消え去っている。
「行ける……! ここを抜ければ、僕たちの勝ちだ!」
勝利を確信し、トンネルの中へと足を踏み入れた、その時。
ズゥゥゥゥン……。
地の底から響くような重低音が、僕たちの背後から迫ってきた。
それは、村人たちの足音じゃない。
無数の回転翼が空気を切り裂く、巨大な機械の駆動音。
振り返った僕たちの目に飛び込んできたのは、山の端からゆっくりと昇ってくる、あまりにも巨大で、あまりにも明るい『月』だった。
サーチライトの暴力的なまでの白い光が、夜の森を、真昼のような絶望で照らし出した。




