③
「なあ、ここでちょっと歌って聴かせろよ」
黙り込んでしまった岬を元気づけようと、俺はふざけて脇腹をくすぐった。
「いやだよ」
岬は体を起して俺から顔を背けた。
「なんで?誰もいないし。恥ずかしがることないじゃん」
「そんなんじゃない!」
冗談めかして歌をせがむ俺に、岬は真顔で怒鳴った。
「『地獄の怒りに燃えるこの胸』だぞ?お前に歌って聴かせる歌じゃない。お前こそ歌って聴かせたらどうだ?」
「え……?」
思いもよらない反撃だった。
「何を?」
岬はなかなか返事をしない。
夕焼けのせいじゃない。
マイセンの陶器のような頬を真赤に染めて口ごもる。
「……お前が、舞台で歌うはずの歌だ。それは僕に歌って聴かせるべき歌じゃないのか?」
俺はしばらく考えて、飛び起きた。
「『ジュ・トゥ・ヴ』か!」
「いつも変人のルームメイトには歌って聴かせてるんだろ?僕は一度も聴いたことないのに。あれは……僕に聴かせるべき歌じゃないのか?」
「恵介……」
間違いない。
相手役の佐伯に向かって俺が愛の歌を歌うのを――岬は嫉妬していたのだ。
その姿が愛しくて、俺は後ろから細い体を抱き締めていた。
「放せよ、この浮気者!」
顎先をくすぐる柔らかな髪に口づけると、とたんに大人しくなる。
「しーっ。佐伯だけじゃない、蒼井さんだって俺の『ジュ・トゥ・ヴ』を聴いてるよ」
美しい口もとがへの字に曲がり、強気な目には涙が浮かんだ。
こいつがこんなに泣き虫で寂しがり屋だというのは、ごく最近の発見だった。
「でも恵介、俺はいつだってお前のことを思いながら歌ってるよ」
「嘘ばっかり」
「嘘なもんか。嘘だって言うなら、今こうしてお前と一緒にいられることの方が嘘みたいだよ。出会った初日に2度と構うなって怒鳴られて、逃げられるは殴られるはしてさ。まさかこんな日が来るなんて、神様だって予想できなかっただろ」
たった二ヶ月半の間に、俺の人生には素晴らしい奇跡が起こったんだ。
「口がうまいな……」
岬は涙を隠し、わざとぶっきらぼうに俺をけなした。
「口だけじゃないよ。歌だってうまい。それに、いつもお前のために歌う」
俺は岬の耳元で囁くように『ジュ・トゥ・ヴ』を歌って聴かせた。
優しげな外見とは裏腹に人一倍気が強くて、俺を見てもニコリともしなかった岬。
でも時々驚くほど寂しげな顔をした。
手を握ったら拒むけど、けして自分から引っ込めることはない。
曖昧なスパイスで出会ったその日から俺を虜にし続けた。
苦悩し何かに怯えた顔でカナリヤのように歌い。
泣き顔は溶けかけの綿菓子より甘い。
そう、はじめは勝手な妄想だと思ってた。
でも今は、やっぱりこいつには俺が必要だったんだって自信を持って言える。
消えてなくなりそうな儚さも。
殴ってやりたくなるくらいの図太さも。
同じぐらいに愛おしい。
棘だらけの小さな薔薇みたいな――岬恵介は、そんな人だ。




