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夜の女王のアリア


――金曜の夜が来た。


「よし、行ってこい」


俺は簡素な命綱を腰に巻き付け、寮の屋根から囚われの姫を救出に向かった。


「15分後、裏門の前で落ち合おう」


頭上から佐伯の声が聞こえる。


俺は親指を立てて合図を送ると慎重にロープを伝った。


あれから、3日――。


大騒動を起こした俺への風当たりは相当に強かった。


クラスで無視されたり寮ですれ違うたび誰かに肘鉄を食らったりするのはまだマシな方で――。


朝になると部屋のドア一面に借金取りも真っ青なほどの誹謗中傷の張り紙が貼られていたこともあった。


『早く学校から出てけ』

『ミサキ姫に謝れ』

『学院の面汚し』云々。


だが、そんなものにめげている時間はなかった。


俺は再び岬に会うため、三日でスパイダーマンの技術を修得し、命がけの秘策を講じる必要があったのだ。


いや正直、俺は飢えた獣みたいに。


ただただ岬だけを求めていた。


だから外野がいくら騒ごうが、まったく関係なかった。


いまや俺を傷つけられるのも、喜ばすことができるのも。


――岬恵介、ただ1人だけだった。



すぐに岬の寝室の窓枠に足がかかった。


中を覗き込む。


愛しの君の姿は見当たらない。


運よく窓が開いていたので、俺は先日佐伯がやったとおりにそこから上半身をねじ込んだ。


難なく部屋の中に滑り込めたものの――。


「やべ……」

 

寝室の外で話し声が聞こえた。


「――文化祭で弾く曲は決まったか?」


声は、ドアのすぐ側まで近づいてきていた。


心臓が止まりそうになる。


それは間違いなく理事長の声だった。


俺は金具を外すのを諦め、たっぷりとしたカーテンの陰に身を隠した。


「先生はドビュッシーの『月の光』をと」


開けっ放しの窓から吊られたロープ。


見つかったら一貫の終わりだ。


ドアを開けたのは岬だった。


部屋の異様な様子に気付いたのだろう。


暗闇でも分かるぐらいに顔をしかめた。


「『月の光』か。お前のイメージで選曲したんだろうが、つまらん。第一簡単すぎるだろう?ベートーベンの『テンペスト』はどうだ?」


アルコールが入っているのか、いつになくご機嫌な理事長が背を向けたまま寝室に侵入してきた。


あろうことか、この状況で部屋に明かりを灯そうと照明のコードに手を伸ばす。




俺は目を閉じて呼吸を止めた。


「お父さん」


咄嗟のところで岬が理事長を押し留めた。


「どうした?」


「今日はもう休みますから、どうかそのままで――」


「なんだ?気分でも悪いのか?」


頼む、そのまま出て行ってくれ。


俺は両手を握り合わせ、ここに来てはじめて神様とやらに祈った。


理事長はしばらく微動だにせず息子の様子を見つめていたが――。


「分かった。窓を閉めよう。風邪を引いたら大変だ」


とんでもないことを口走る。


やはり神などいないのだ。


「お父さんっ……」


岬の呼びかけも虚しく、理事長の体は窓に向かって傾いた。


「なんだ?」


かろうじて首だけあちらに残した形で、訝しげに息子に聞き返す。


「――電話です」


その時、リビングで天界の鐘のように電話のベルが鳴り響いた。


「ああ。じゃあ、窓を閉めて寝なさい。おやすみ」


理事長は岬の額に口づけると、寸でのところで部屋を出て行った。






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